古代朝鮮と多元的外交展開か「渡来人いずこより」展
古代朝鮮と多元的外交展開か「渡来人いずこより」展 撮影:岡村雅之 THEPAGE大阪
朝鮮半島から先進的な文化や技術をもたらした渡来人の足跡をたどる「渡来人いずこより」展が大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている。出土物の分布に地域的な偏りがあることから、古代朝鮮に対し、ヤマト王権と地方豪族が独自の外交を展開していた可能性が明らかになった。会期は6月12日まで。 【拡大写真付き】「食」と「祭り」がコラボ 食博覧会・大阪にぎわう
「中央は百済」でも「地方は新羅」の独自外交
近畿地方と周辺地域で出土した朝鮮半島に関係する資料を、渡来人の「出身地」に焦点を当てて展示し、朝鮮半島と日本列島の交流像を浮き彫りにした。古代の朝鮮半島は一様ではない。4世紀から7世紀の三国時代、北部に高句麗、南部には新羅、百済、加耶が分立し、緊迫した連合国家を形成していた。それぞれの地域に個性的な文化が花開く。広く使用されていた土器も、地域によって形状が微妙に違う。 日本列島との交流を積極的に進めたのが、長らく対立関係にあった新羅と百済だった。660年、百済は唐と新羅の連合軍に敗北して滅亡する。食べ物を蒸す「甑」(こしき)や、動物の角を模した飲用の器「角杯」、鈴のような音を鳴らす「鉄鐸」(てったく)などの出土分布を調べると、分布に偏りがあることが分かった。ヤマト王権が統治する近畿地方では百済系、近畿から離れた周辺地域では新羅系の資料が多かった。担当学芸員の寺井誠さんが次のように分析する。 「ヤマト王権による中央集権体制が確立していなかった時代には、王権が朝鮮半島との外交を一元管理していたのではない。地方豪族も自身の裁量で独自の外交を展開していた。新羅との対立で国難に直面した百済が、倭のヤマト王権との連携を求めて王権に近づく。一方、新羅も倭との接点を維持するため、朝鮮半島の情勢を知りたい地方豪族との間で友好関係が構築されていたのではないか」 中央は百済と連携し、地方は百済と敵対する新羅と手を組む。生々しい構図をにじませながら、多元的外交が展開されていた可能性が高い。少なくとも、地方では中央を介さない独自の交流が繰り広げられていたことだろう。