【没後35年】再起不能と心配された美空ひばり「ああよかった。ちゃんと声が出るわ!」復帰後初のレコーディングで見せた日本歌謡界の女王としての矜持
今から35年前の1989年6月24日、美空ひばりさんは52歳という若さで亡くなった。国民的歌手として今でも絶大な人気を誇る彼女が、なぜ“不死鳥”と呼ばれるようになったのか。その伝説の一部を紹介しよう。 【画像】15歳の美空ひばり
「美空ひばりはファンにとっても、歌手にとっても”燈台”なんだ」
1987年3月の初め。作詞家の星野哲郎は、常磐線の特急ひたち3号に乗って、福島県いわき市にある塩屋岬へ向かった。 長期入院を余儀なくされていた美空ひばりが退院して、病からの復帰第一作となる新作をコロムビア・レコードから頼まれたからだ。 前年に病に倒れて危機にあった美空ひばりの復帰作にあたって、作詞を星野に、作曲を船村徹に依頼したのは、コロムビアで長くディレクターを担当していた森啓である。 星野が森から言われたのは、福島県の塩屋岬あたりを見に行ってほしいとのことだった。どういう詞が求められているのか、いろいろ感じてもらえるはずだと。 森がその時に心の奥で思っていたのは、「美空ひばりはファンにとっても、そして歌手にとっても目標、つまり”燈台”なんだ」ということだった。だからそんな思いを、そのまま歌にしてほしかった。 朝一番の汽車に乗ってやってきた塩屋岬の周囲には、太平洋に臨む“燈台”が一つあるだけで、人影のない海岸線は荒涼としていた。 星野は、ぱっとしない景色の中で、どうすれば人間ドラマを描けるのかを考えながら、あてどなく浜辺を歩き続けた。そして夕暮れ時。振り返ると、夕陽の中に白い燈台が立っていた。今まで遠くにあった燈台が、大きく見えた。 誰もいない大海原に向かって命の光を放つ燈台が、次々に家族を失っていく哀しみの中で、孤独感に包まれていた美空ひばりに重なって見えた……。
母や弟が亡くなり、ついに身体が限界を迎える…
戦後の日本に彗星のごとく現れた歌手、美空ひばり。 9歳で天才少女歌手といわれ、1949年に12歳でレコードデビューを果たすと、同年に主演した映画『悲しき竹笛』の主題歌が大ヒット。それから数年間のうちに国民的なスターとなり、その後は日本の芸能・歌謡界を常に第一線で牽引していった。 その活躍を影で支え続けていたのが、母の喜美枝だった。マネージャーとして、そして母として、ひばりに付き添って尽力してきた。 そんな喜美枝が、転移性脳腫瘍によって68歳で逝去したのが1981年。さらには2人の弟。ひばりプロダクションの社長でプロデューサーとして陣頭指揮を執っていたかとう哲也と俳優・歌手の香山武彦も、1983年と1986年に共に42歳の若さで亡くなってしまう。 わずか数年で3人もの肉親を失うという深い悲しみの中で、ひばり自身の身体までもが次第に蝕まれていった。そして1987年4月22日、ついに身体が限界を迎えることになる。 全国ツアー公演先の福岡市で緊急入院。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断された。予定は全てキャンセルされ、療養生活に専念することになった。 そんな中、今度は親交が深かった昭和の大スター、鶴田浩二が6月16日に62歳で他界。さらには7月17日、よき友だった石原裕次郎も52歳で永眠。 精神面でのダメージを受けていたはずの美空ひばりだったが、入院から3か月半後の8月3日に退院して、気力だけで東京の自宅に戻った。そこで復帰の日を待つことにした。