世界で2900万部売れた中国SF『三体』。 女の子にベルトで殴り殺されるショッキングなシーンから始まる壮大なSF物語【大森望さんインタビュー】
中国SFのベストセラー『三体』シリーズの文庫化が遂に始まった。世界で2900万部、日本では単行本の三部作累計100万部突破という大ベストセラーとなった劉慈欣(りゅう じきん)による『三体』は、本国中国ではすでにテレビドラマ化され日本でもWOWOWオンデマンド、U-NEXTなどで【梅】現在配信中。またNetflixでも『ゲーム・オブ・スローンズ』のクリエイターチームが映像化し現在絶賛配信中と、中国SF『三体』の盛り上がりは継続中である。 本記事では『三体』祝文庫化ということで、本作の翻訳者の一人であり書評家の大森望さんに『三体』の魅力についてお話をうかがった。
世界的ベストセラーSF『三体』日本版刊行まで
――2019年に早川書房から日本語版が刊行され話題となった劉慈欣(りゅう じきん)さんによる中国SF小説『三体』シリーズですが、遂に文庫化となった今回、訳者のお一人である大森望さんに改めて『三体』の魅力などをお伺いしたいと思います。 まず、2019年に日本語版『三体』が登場するまで国内での中国産SFはそれほど活発に刊行されてはいなかった印象ですが、なぜ国内でこれほどまで『三体』が話題になったのでしょうか 大森望さん(以下、大森):中国のSF長編はそれまで日本ではまったく翻訳されていませんでした。実績はゼロです。でも、だからこそ興味を引いたのかもしれません。同様の状況だったアメリカでも、『三体』が英訳されると大評判になり、2015年には翻訳作品として初めてヒューゴー賞(歴史あるSF・ファンタジー作品の文学賞)を受賞。その結果、三部作の英訳版のセールスは100万部を突破したんです。その情報が日本にも入ってきて、『三体』に対する期待はものすごく高まっていた。満を持して日本語版登場ということで、翻訳刊行が遅れたことが結果的によかったのかもしれません。 ――原書が中国で発売されてから日本語版が出るまで10年以上経っています。 大森:中国のSFを翻訳する土壌がそもそもまったくなかったんですね。翻訳の検討が始まったのは、ケン・リュウによる英訳が出版されて、それがヒューゴー賞を受賞してからだと思います。ヒューゴー賞長編小説部門の受賞作は邦訳刊行されるのがあたりまえなので。 ――中国とSFとの結びつきで連想するのはテッド・チャンや、近年ですとケン・リュウといった作家が思い浮かびますが、『三体』の劉慈欣さんとの大きな違いはなんでしょうか。 大森:テッド・チャンやケン・リュウの作品は英語で書かれた作品で、小説の中身も完全に英語圏のSFです。本人たちも中国SFの文化に触れて育ったわけではなく、英語圏のSFで育ち、英語圏のSF作家になった人たちです。テッド・チャンの両親は中国から台湾に渡った人たちですが、家庭では英語を使っていたそうで、チャン自身は中国語がほとんどわからないし、中国文化にも触れてこなかったそうです。 ケン・リュウは中国生まれで、中国語は不自由なく読んだり話したりできますが、作家としてはアメリカで育ったので、中国系アメリカ人作家ではあっても、“中国のSF作家”ではないですね。しかしケン・リュウは自作が中国語に訳されたことをきっかけに同時代の中国SFに興味を持ち、それらが英語圏でまったく知られていない事態を改善すべく、自分で英訳しはじめた。英語圏における現代中国SFの受容はそこから本格的に始まりました。とくに日本で重要な役割を果たしたのは、ケン・リュウが英語に翻訳したものを集めたアンソロジー『折りたたみ北京』(同タイトルでハヤカワ文庫SFより刊行)です。ケン・リュウはすでに日本でも『紙の動物園』の成功で人気作家になっていましたから、そのケン・リュウの折り紙付きの作品なら――ということで日本の読者も安心して手に取った。その評価が非常に高くて、中国SFを受け入れる土壌ができました。 ――私が初めて劉慈欣という作家と『三体』を知ったのも『折りたたみ北京』に収録されていた短篇の「円」でした。「なんじゃこりゃ!?」みたいな(笑)。 大森:いかにも中国らしいですよね。秦の始皇帝が3000万人の兵を集めて人力コンピュータを作るという。以前にも人間でコンピュータを作るという発想はあったんですけど、あれを中国でやるとリアリティがある。しかも始皇帝にしたのがすごくよかった。 あれは『三体』の作中に出てくるVRゲームの一エピソードを抜き出して改稿し、短篇に仕立て直したものですが、主人公を荊軻(けいか)にして、暗殺のために送り込まれた男が代わりに人列コンピュータを作りはじめるという改変歴史SFになっています。 ――『折りたたみ北京』の「円」解説に『三体』という小説から抜粋した章の改作だと書いてあって、元本の『三体』はどんな小説なんだ?と思いました。 大森:『三体』の一部を独立した短篇にした「円」が日本のSNSで大評判になったことで、(『三体』に登場する)地球三体協会の人たちが三体人を迎える準備を整えていたかのように、日本でも『三体』を迎え入れる準備が整えられていたという(笑)。 ――そう考えるとケン・リュウの功績は大きいですね。 大森:中国生まれなんだけど、英語圏のSF作家として評価も知名度もあるケン・リュウがいてくれたおかげで、理想的な橋渡しになったと思います。日本でも英語圏SFの翻訳に関しては長い歴史がありますから、ケン・リュウが英訳したアンソロジーの日本語訳というワンクッションをはさんで、ご本尊の『三体』を中国語から翻訳するというのは理想的な順序だったと思います。 ――バラク・オバマ元大統領やマーク・ザッカーバーグも、『三体』を読んだといわれますが、アメリカでも中国のSFが読まれているのも興味深いです。 大森:たぶんアメリカでも日本と同じような感じだと思うんですね。米中貿易摩擦とか、外交問題とかいろいろあって、正体の見えない大国・中国に対する興味と関心がある。何を考えてるかわからないけど、SFを仲立ちにすればと理解できるんじゃないかと。SFというものが中国とアメリカの間の共通言語として機能していると思います。 僕は劉慈欣さんとほぼ同世代なので、アーサー・C・クラークとかアイザック・アシモフといったSFの黄金時代といわれている1940年代・50年代のSFの影響を受けていることが手に取るようにわかる。小松左京の『日本沈没』の影響もあるし、田中芳樹『銀河英雄伝説』の一節が作中にいきなり引用されたりする。中国語のSF長編を読んだのは『三体』が初めてでしたが、グローバルなSF文化を共有している同世代の仲間の作品というイメージで読めるんですよね。 そのおかげで『三体』は、8割ぐらいが共通言語のSFで書かれていてよくわかる。残り2割の中国ならではの部分が新鮮なアクセントになって、非常にわかりやすく吸収できる。いまさらアメリカのことを知ろうと思ってSFを読んだりする人はいないと思いますが、『三体』については、外国の読者の中国に対する興味が普通のSFにない牽引力を生み出していて、そこは中国SFならではかなと思います。