<偉人の愛した一室>「流転の王妃」愛新覚羅浩が夫の溥傑と新婚生活を送った邸宅「愛新覚羅溥傑仮寓」
夫婦の生涯忘れ得ぬ光景
二人が新婚生活を送った住まいは、稲毛海岸を望む小高い場所に建つ。稲毛浅間神社に隣接し、かつては目の前が浜辺、海の鳥居から始まる参道が脇を抜けて本殿へと続いた。風光明媚な保養地として付近には多くの別荘が建てられていた。 家屋はさほど手の込んだものではないが、使われている材料は一級品である。玄関を入ると、奥に向けて和室が二間に洋室が続く。これらは夫妻の居室だった。管理する千葉市教育委員会の飯島史尊さんは、「洋間は二人のために特別に用意されたものではないか」と話す。 玄関から右手には八畳と十畳の客間が設けられた。海に近い十畳は、格天井に品格ある欄間、一間半の床がつき、床脇に違い棚、天袋、地袋が備わる式正の書院造りである。ここに溥傑はなぜか応接セットを置いていた。陸軍に用意された家であっても、満洲と変わらぬ椅子の生活にこだわったのかもしれぬ。 取り回された縁側からは稲毛海岸、さらには袖ケ浦を望むことができた。海苔の養殖が盛んで、漁をする漁船も眺められた。二人がここで満ち足りた時間を過ごしたことは、邸内に飾られた仲睦まじい写真の数々が物語る。それは確かにつかの間に過ぎなかったのだが──。
離別中に慧生と死別し、日本での人生を選んだ嫮生とも別れ、浩は名誉と地位を回復した溥傑と中国で添い遂げる。二人は国交回復後の74(昭和49)年に来日し、さらに、浩が旅立った3年後の90(平成2)年、溥傑は再び日本を訪れ、この稲毛の旧宅に足を運ぶ。この折、溥傑に付き添った嫮生が裏庭に白雲木の苗を植えた。この名木は成婚に際し、浩が貞明皇太后より種を賜ったもの。かつては宮中にしかなかった珍しいもので、春には白い花を咲かせ甘い香りを漂わせる。 縁先に立って海を眺めた途端、溥傑は深い哀切の情に襲われ、亡き妻に語りかけるように二編の詩を残す。 ──想い出すとつい我を忘れてしまうほど幸せだった── 満洲の厳しい自然に育った溥傑には、稲毛の穏やかな風光と新婚生活は、生涯忘れえぬものだった。
羽鳥好之