『がんばっていきまっしょい』30年越しの“アニメ化”の評価は? ボート競技の“延長”の意味
『がんばっていきまっしょい』の「延長戦」はまだまだ続いていく
悦子たちのボートは5人だけでこぐものなのか。おかしな疑問と思うだろうが、ここで注目したいのは悦子たちのライバルとして登場する人物、寺尾梅子の存在である。 梅子はボート部強豪校の港山高校のエースだ。“ライバル”と書いたが、大会での成績は悦子たちとは比べ物にならないし、喫茶店兼お好み焼き屋「ソフトタイム」で初めて会った際は“エンジョイ勢”レベルだった悦子たちを露骨に邪魔者扱いすらした。悦子自身、自分たちは梅子の眼中にはないだろうと思っていたほどだ。けれど暇を持て余した悦子が街をぶらついていたさなかに出会った彼女は、意外にも三津東に大いに関心を寄せていた。ボート競技に真剣な梅子はいつしか悦子たちへの認識を改め、負けまいといっそう熱心に練習に取り組み続けていたのだ。 ボートは集団で息を合わせるものだから、自然と仲間たちの考えが分かるようになっていく。犬猿の仲だった妙子と井本がいつしか幼い頃の仲の良さを取り戻していったことなどはその分かりやすい例だろう。けれど相手の考え方が分かっていったのは決して5人の間だけではない。正反対な性格の二宮を嫌っていた悦子がボート競技に打ち込む中でむしろ惹かれていったり、先の梅子が三津東に自分たちとはまた違う一体感や勢いを感じるようになっていったのも同じことだ。乗っている舟が違っても、その心の動きは不思議と連動している――まるで共にボートをこいでいるかのように。 リレーで止まってしまった悦子の回転運動がオールによって再開したように。仲間たちの仲が深まると共に実力が伸びていったように。悦子の再度の挫折が、立て続けのできごとが理由であったように。何もかもがうまくいかない時、私たちは世界に自分が取り残されてしまったように感じることもあるけれど、世界というのは意外と私たちと連動しているものだ。 言ってみるなら生きることは「世界」という得体のしれない存在と一緒にボートをこいでいくようなもので、世界が自分に代わって物事を進める時も逆に自分が世界を変えるような推進力を発揮することもある。そして世界と自分の息が合っていると感じられた時、人は自分でも思いもしなかったほど前に進めるものだ。悦子の立ち直りと共に練習を再開、最後の大会ではかつて飲まれた空気に張り合いを感じるほどに成長した三津東は、港山にこそ負けたものの自分たちのベストレコードを更新するほど全てを出し切ることに成功したのだった。 本作は悦子たちが県大会で2位を獲得するまでを描き、まるで全てが終わったかのようにボートの艇庫を閉じながらも、新入部員の加入や2位まで四国大会に出られることが明かされるなど未来を予感させる結末で幕を閉じる。それは彼女たちの人生が、いやボートがこれからも前に進み続けるからなのだろう。物語に決着こそついているが、これはエンディングであってエンディングではない。1995年に書かれた小説が今回アニメ化されたように、延長戦はまだまだ続いていく。 人生は舟をこぐことに似ている。アニメ『がんばっていきまっしょい』は、世界と一緒に舟をこぐ人生の不思議を水面に映してみせたのだ。
闇鍋はにわ