消防直通電話の「爆発火災」で始まった 聖路加病院長が振り返る「地下鉄サリン事件30年」
1995年3月20日に東京都内の地下鉄車内で神経ガスのサリンが散布され、死傷者が出たオウム真理教による無差別テロ「地下鉄サリン事件」は来年、発生から30年を迎える。 【写真】サリンで汚染された地下鉄車両を除染する陸上自衛隊化学防護隊 東京ビッグサイトで今月11日まで開催された「危機管理産業展2024」の併催企画「テロ対策特殊装備展」では、この事件をテーマにしたセミナーも開かれた。(時事通信解説委員 宮坂一平) 多数の搬送者を受け入れた聖路加国際病院(中央区)の石松伸一院長が、テロ対策に詳しい公共政策調査会の板橋功研究センター長との対談で、当時の対応について語った。 事件当日、石松氏は朝から救急外来で勤務していた。午前8時16分に東京消防庁からの直通電話が鳴り、受話器を取った看護師から「先生、地下鉄茅場町駅で爆発火災が発生したらしいです。重傷者を何人引き受けられるかと言っています」と問い掛けられた。 その時感じたのは、これは大変だと。現場が茅場町なら一番近い病院になる。情報は確定的ではなかったが、もう「爆発火災」で頭がいっぱいになり、何かが爆発して大けがをしたり、やけどを負ったりした外傷患者が何人も来るとイメージしたという。 普段なら消防が伝えてくるはずの患者についての搬送前の情報連絡はなかった。病院に救急車が到着し、後部のハッチを開けたが、焦げ臭いにおいはせず、患者は息が苦しい、目が痛いと言っているだけだったと述べた。 救急隊に何が起きたか尋ねても、「ホームまで行っていないので、分かりません」。駅の外で大勢の人が倒れており、一番具合の悪そうな人を連れてきたという話を聞いて、爆発火災は間違った情報だったのかもしれないと思ったという。 午前8時50分に全館非常招集。病室はあっという間に埋まり、酸素吸入できる配管が敷設された1階、2階の廊下もストレッチャーで埋め尽くされた。 病院から、誰がどこで何をという細かい指示はなかった。通常の診療は中止、その日の手術も中止という指示だけだったが、外来の医師もそれで手が空き、自発的に手伝ったと語った。患者は1日目が640人。1週間で計約1200人に上った。 板橋氏が「当日の午前11時すぎ、信州大学の病院長からサリンを疑う連絡が入ったということだが、そうなると医療関係者も引いてしまったりするのでは」と尋ねたが、石松氏は「そういう感じは全くなかった」と答えた。 患者の多くはコートを着ていた。サリンなら2次被害が起きる恐れもある。そのためビニール袋を配り、地下鉄車内で衣服に染み込んだかもしれないガスが飛散しないよう、脱いで中に入れ、密封するようお願いしたという。病院2階の礼拝堂で患者に対応していた職員の約半数には、2次被害となる体調変化があったとも話した。 石松氏は「サリン事件を経験した職員は今1割も残っていない。30年たつと社会は事件を忘れてきているが、教訓として引き継いでいくことが重要だ」と述べた。