「家族の元に返して」戦争で奪った遺品、悔いた元米兵の願い届き大分の家族の元へ
日米開戦から83年となる今年、ある日本兵の遺品が大分県国東市の遺族の元に返ってきた。所持していた元米兵は2015年に亡くなるまで返還を強く望んでいたという。亡き父から思いを託されたジェームズ・アンドリュースさん(74)=米フロリダ州在住=は「父は日本兵をあやめ、遺品を奪ったことを悔やんでいた。遺族に返せて喜んでいると思う」と語った。 【写真】アルバムに収められていた写真。一番右が岩武さん 「父は夜中に悪夢にうなされ、叫び声を上げていた。戦争のことは聞いてはいけないと母から言われていた」。11月下旬、オンライン取材に応じたジェームズさんはこう振り返った。 戦争について多くを語らなかった父が重い口を開いたのは96歳の時。亡くなる2、3カ月前だった。クローゼットの奥にしまっていた古びた段ボール箱からアルバムを取り出し、「彼を愛する家族の元に返してほしい」と託された。日本兵の写真など30枚ほどが収められていた。 米軍は1944年10月、開戦直後に日本軍に占領されたフィリピンを奪還するため、進攻を始めた。父は翌年、ルソン島に上陸。生きるか死ぬかの激戦の中で日本兵の命を奪い、自身も膝を撃たれて負傷したという。 「戦争は正気を失わせる。時間がたつにつれ、遺品を持ち帰ってしまったことを悔いていたようだ」とジェームズさんは話す。戦後は映画館や輸送会社、地元スーパーで亡くなる直前まで働いた「勤勉で控えめ」な父の願いをかなえようと所有者を探し始めた。 日本領事館に調査を依頼したが手掛かりは得られず、昨年秋に米国のNPO法人「キセキ遺留品返還プロジェクト」を紹介された。キセキは写真の裏面に書かれた名前などを手掛かりに、アルバムの持ち主が国東市の岩武文生さんと突き止めた。 めいの郁代さん(68)は、23歳で戦死した文生さんについてほとんど知らなかった。5月に護国神社を通じて遺品を受け取ったのを機に、仏壇の引き出しに保管されていた手紙を読み返した。 長男だった文生さんは5人きょうだいの中で唯一、高等教育を受けていた。父親を早くに亡くし、一家の大黒柱として期待される中、43年秋に陸軍に入った。 きょうだいに宛てた手紙にはこうつづられていた。≪自分だけ学校に行って、おまえたちの前途を犠牲にした兄を許してくれ≫≪老後のお母さんには苦労をかけないように皆で力をあわせて孝養をつくして≫ 「温かく優しい人だったんだと思った」と郁代さん。文生さんの命を奪った米兵も苦悩していたと知り、「兵士たちに罪はない。憎むべきは戦争そのものだ」と強く感じた。 ジェームズさんも「戦争は双方に深い傷を残す。絶対にやってはいけない」と訴える。 来年で戦後80年。日米の遺族は戦争の罪深さをあらためてかみしめている。 (平峰麻由)