女子ブラインドサッカー・内田佳が伝えたい「余暇としても楽しめる」魅力。インド一人旅で変わった競技への思い
23歳の時に、ポストにぶつかったことで恐怖心が芽生え…
――女性スポーツで、高校卒業後に選手の登録者数が減ってしまう現状がありますが、「KeepPlayingプロジェクト」の趣旨についてはどのような印象ですか? 内田:ブラインドサッカーは衝突があるため、女性が続けにくいスポーツだと感じます。選手になったとしても、現時点で女子はパラリンピックの種目ではないので目標設定が難しいです。ただ、「国内で楽しくプレーしたい」と思う方もいますし、余暇として競技を楽しむ方が増えてくれるとうれしいです。競技に欠かせないガイド、センターガイド、マネージャーなど、プレーヤー以外でもチームには重要な役割があるので、プレーヤー以外の役割で競技に関わり続けることもできます。 ――内田選手ご自身は、競技をやめようと思われたことはありますか? 内田:23歳の時に、試合で思いきりゴールポストにぶつかり、怖くなったことと、仕事がうまくいかない時期が重なり、やめようと思いました。その頃はあまり空間認知ができていなかったと思います。また、当時は大会で1日に2、3試合あって、疲れ果てた最後の試合で、集中力が切れていたんです。その時に、集中力が切れてコーナーキックの守備時にゴールの場所がわからなくなり、思いきりぶつかってしまったんです。 ――どのようにしてその逆境を乗り越えたのですか? 内田:当時は女子選手が少なかったので、誰にも相談できずに1人で悩むことが多かったですね。でも、体力をつけることと、メンタル的な部分も強化しました。負けたり、うまくいかないプレーをしたりして落ち込んだりすると集中力が切れてしまうので、今はそういう時も集中力を保つように心がけています。また、試合に集中すると、自然に怖さを忘れられるので、克服したというよりは、怖さを忘れるようにしています。
20代で30カ国を一人旅。インドで見た子どもたちの姿が復帰のきっかけに
――その後、競技を本格的に再開する上でどんな転機があったのですか? 内田:海外を一人旅していた25歳の時に、インドで地元の子どもたちが練習しているところを見て、もう一回始めようと思いました。その時は、チームではなく友人同士の遊びで始めたので本気ではなかったのですが、それがきっかけになり、29歳の時に友人から「チームを作ろう」と誘われて、本気で復帰しました。 ――なぜ、世界を一人旅しようと考えたのですか? 内田:ブラインドサッカーをする中で、「あまり見えなくても、いろんなことができている」ということが分かるようになっていたので、海外の人々はどういう生活をしているかが気になったんです。いろいろなところでブラインドサッカーの体験会をしていて、「他の国はどういうふうにやっているんですか?」と質問された時に答えられなかったので、もっと世界を知ろうと思って旅に出ました。 ――怖い思いをすることもあったと思いますが、海外ではどんなことが刺激になりましたか? 内田:不安もありましたが、現地でたくさんの人に助けてもらい、2年半ぐらいかけて30カ国に行きました。その中でも一番印象に残っているのがインドです。イメージしていたことがいい意味で覆されて、いろいろなことを考えるきっかけになりました。 ――それが25歳の時だったんですね。どんなことが印象に残ったのですか? 内田:各国で障がい者施設や盲学校を訪問して、インドでは4つの施設に行ったんですが、日本では考えられない風景を見かけました。3歳から大人までが一緒に通うリハビリテーション施設で、3歳の全盲の子どもたちが自分で洗濯をしたり、料理を席まで運んだりしていたんです。常に親御さんが一緒にいれば安心ですが、子どもたちができることを省いてしまうこともあると感じました。日本では全盲の方は白杖を持って点字ブロックがないと(困る)、ということもあるのですが、インドでは普通に白杖を持たずに街中を歩いている人もいたので、そういう感覚も養えているんだなと驚きました。 ブラインドサッカーに関しては、インドでは本格的な競技というよりは、楽しむ感覚で部活動を行っていたので、そこで一緒に混ぜてもらってプレーしたのですが、環境が整っていないなかでもみんな楽しそうにプレーしているのを見て、「自分ももっと頑張ろう」と思わせてもらいました。 ――復帰後、ブラインドサッカーとの向き合い方は変わりましたか? 内田:そうですね。日本に帰ってきてからは、周りに「ブラインドサッカーをやってみたい」という人が増えましたが、大会で優勝するとか、「代表になりたい」というような目的の人は多くなかったので、今は「楽しみや余暇として競技を楽しみたい」という人たちと一緒に楽しくできたらと思い、世田谷区でチームを作っています。旅に出る前までは横浜のチームに所属していて、どちらかといえば先輩たちについていくタイプだったので、自分自身にも変化があったと思います。