「お前の株式は偽物だ」怒って裁判する父、目も合わせてくれない銀行 大ピンチの工場を、娘はどうやって承継したのか
◆青天の霹靂だった閉鎖宣言
----その後、いきなり会社の閉鎖宣言があったということですが。 リーマン・ショック前の忙しい時期、突然、父が会社の閉鎖宣言をしました。 驚いたのですが、壊れた機械も直さず、本当にやめる気なんだと理解しました。 「平鍛造=平昭七」という思いが強かった父は、社長を辞めるときは会社も無くなるものだという考えだったかもしれません。 しかし、取引先のメーカーや商社は困ります。 取引先だけでなく、石川県副知事や県議会議員も来て、地方の重要な産業や雇用先ということもあり、「やめないでくれ」と言ってくれたんです。 すると、父はどんどん有頂天になり、会社閉鎖を保留にしていました。 そんな最中、リーマン・ショックが起こりました。 すると、取引先はベアリング素材などが不要になり、「やめたければやめろ」と態度が変わってしまいました。 従業員も多くいたため、会社を辞めることもできないので、私がお詫び行脚で取引先を回りました。 お詫び行脚では散々怒られたのですが、「父を追い出して社長を交代しろ!」という要求が出てきました。 それくらい取引先は怒っていました。 これ以上、取引先を減らすことはできず、会社の株式を3分の1ずつ所有する私と甥が相談し、父に会社をやめてほしいと進言しました。 すると怒った父が「お前たちの持つ株式は偽物だ」と主張して裁判になってしまいました…。 結局、裁判官が「良い会社がなくなってしまうのは残念」と和解調停を提案し、父個人に60億円を払って会社が株式を買い上げる形で決着したんです。 こうして私が平鍛造の3代目社長になりました。
◆海外に活路を見いだして再びピンチを脱する
----3代目社長として、どのようにスタートしたのでしょうか? どんなに信頼関係があっても、この業界は取引を一度ストップすると、簡単には再開できません。 そのため、ほぼゼロからの厳しい船出となりました。 一番の問題は会社に資金がないこと。 父に和解金を払い、リーマン・ショックで発注がほとんどなくなったため、お金がなかったんです。 メガバンクや地銀などに融資を頼みに行っても、カウンター越しに目も合わせてくれない始末で、1円も貸してくれませんでした。 おそらく平鍛造が復活することはないという判断だったのでしょう。 工場を8億で売ることで、従業員に給料を払ったり、電気代や重油代とかのランニングコストを捻出したりして、凌いでいました。 ----再び厳しい状況に陥ったなかで、どのように会社を再建したのでしょうか? 国内だけで状況が好転することはないと判断し、以前に商社経由で石油関連会社の仕事をもらったシンガポールの会社に行ってみました。 当時のシンガポールは、ものすごい量の石油を採掘していくスタートの時期で、関連会社がどんどん生まれていました。 シンガポールで数社回ると、毎月数万個の受注がすぐ決まり、会社を建て直すための土台ができました。 以前、会社が抱えていた100億円の借金を返すために商品の値上げをしたタイミングも良かったですが、結果として海外に目を向けたタイミングも絶妙でした。 我ながら運が良いと実感していますが、何かあったときに落ち込んだり、心配したりしても解決しません。 何もせず心配することは、空想じゃないですか。 悶々としているくらいならとにかく行動し、失敗したらまた次に挑むことが大事だと思っています。