江戸中の話題となった旗本奴vs町奴の“喧嘩騒動”「幡随院長兵衛と水野十郎左衛門」【大江戸かわら版】
江戸時代には、現在の新聞と同様に世の中の出来事を伝える「かわら版」があった。ニュース報道ともいえるものだが、一般民衆はこのかわら版で、様々な出来事・事件を知った。徳川家康が江戸を開いて以来の「かわら版」的な出来事・事件を取り上げた。第6回旗本奴(はたもとやっこ)と町奴(まちやっこ)の喧嘩騒動について。 明暦3年(1657)7月、江戸は小石川・隆慶橋のたもとに菰包(こもづつ)みにされた死骸が上がった。物見高い江戸っ子たちで橋は埋め尽くされた。その死体の主こそ数日前に旗本・水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)の屋敷に行ったきり行方不明になっていた町奴のリーダー・幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)であったから、何種類もの「かわら版」が事件を書き立てた。 江戸時代の初期、慶安年間から寛文年間(1648~72)に掛けて、ほぼ20年間、旗本奴と町奴と称された「突っ張り」男たちが激しく対立し、喧嘩に明け暮れていた時期である。その格好や言葉遣いなどから「男伊達」などと自らを称して、力を競い合った。 元来が、旗本などの2、3男が家督を継げないなどの不満から持て余した腕力などを示した。類が友を呼び、徒党を組む旗本たちは、神祇組(じんぎぐみ)・六法組(ろっぽうぐみ)・白柄組(しらつかぐみ)などを名乗る組織を作り上げた。旗本奴は、タダ呑み・タダ食い・ゆすり・たかりを繰り返した。 これに対して、旗本奴の乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)から町人を守るという建前で、町人に中から任侠を自称する町奴が登場した。「放れ駒四郎兵衛」「夢の市郎兵衛」「唐犬権兵衛」「鍾馗の半兵衛」などと名乗って多くの子分を抱えた。その中でも特に人望が厚く、子分も多かったのが幡随院長兵衛であった。 長兵衛は肥後(熊本)出身で元は武士であった。江戸に出て旗本に奉公中、男を斬り殺し死罪を言い渡されたが、池之端の幡随院上人が命乞いをしてくれて助命された。その恩義として後に名前を「幡随院」とした。口入れ稼業(大名や旗本が必要な人夫や中間などを斡旋する職業)の山脇惣右衛門に見込まれて、その娘を嫁にもらい、自らも口入れ稼業に就いた。 白柄組の水野は3千石の旗本。祖父の水野勝成(かつなり)は備後(広島)福山藩10万石の大名。父は勝成の3男・成貞(旗本5千石)。母は、阿波(徳島)25万7千石・蜂須賀家の2女であった。その長男として生まれた十郎左衛門は、父に倣って旗本奴・白柄組の統領に納まっていた。 水野と幡随院は交流があり、友人として酒を飲み交わすこともあった。だが、子分同士や町奴と旗本奴の喧嘩に端を発して、その仲が次第にこじれてきて、とうとう水野は長兵衛を殺す腹を決めて、自らの屋敷に招待。湯殿に浸かっている長兵衛を槍のひと突きで殺し、菰に包んで川に投げ入れたのだった。 結局この時には、長兵衛は殺され損となり、水野にはお咎めなしとなった。長兵衛の町奴仲間や子分たちは、敵討ちをいくつか計画したが、その度に捕縛されるなど成功には至らなかった。だが、7年後の寛文4年(1664)3月には、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)役の中山勘解由(なかやまかげゆ)によって切腹を命じられることになる。その罪状は「年来の不行跡」であった。
江宮 隆之