伊藤博文に大隈重信、吉田茂まで…政財界の大物がこぞって訪れた日本のリゾート地「大磯」の誕生秘話
読みどころ
筋立てで読者の興を引こうとはしない。華麗な修辞もない。ただ淡々と主人公の生涯を叙していくばかりだ。史伝というべきかもしれない。しかし、いくら史料を博捜しても、埋めきれない細部に小説家としての眼が光っている。 功なり名遂げた良順だったが、私生活においては妻や子供、弟に次々と先立たれ、さびしい晩年を送っている。作者は、その後半生に静かな視線をそそぐ。 良順は長崎滞在時、ポンペに海水浴の効能を説かれた。海水浴が人体に良い影響を与える、というのだ。以来、旅をしながら常に適地をさがしていた。陸軍軍医総監を辞す前年、大磯の宮代屋という宿屋に泊まり、その地を調べた。海水浴場が誕生すれば、宿駅制度が廃止されて以降の大磯の沈滞も打開できるではないか。 大磯は潮の干満が大で、気候温暖、砂地が広く清潔であり、海水浴場としてのすべての条件をそなえているのを知った。 かれは、宮代屋の主人宮代謙吉に大磯を海水浴場とすることを強くすすめ、宮代は僻村である大磯が繁栄することにもなると奔走したが、その効は薄かった。
僻地の大磯に海水浴場を!
順は、折にふれて海水浴の効能を説き、大磯が海水浴場として最も適した地であることを説いてまわった。しかし、大磯は僻地であることから、足をむける者は稀であった。 明治18年(1885)、大磯の照ヶ崎海岸に海水浴場が誕生したが、客足は伸びなかった。だが、東海道線の延伸が状況を一変させた。明治20年(1887)、横浜―国府津間の開業と同時に大磯にも駅ができ、京浜方面からの足の便が格段に良くなったのである。 海水浴客が一気に増えたばかりか、政財界の大物が相次いで別荘を建てた。良順もそのひとりで、明治25年、東京から大磯に移った。 彼は男爵の地位を授けられ、勲一等瑞宝章を受けたが、先立たった肉親を思って淋しさを募らせる。大磯の海を眺めながら、彼は感慨にふける。「これまで多くの人と出会ったが、そのほとんどが次々に死んでいった。人は必ず死ぬものだ、という当然すぎる思いが胸をよぎる。」 明治40年(1907)、良順は静かに息を引き取った。齢76歳。作者・吉村昭の覚悟の死が脳裏をよぎる。 『東海道屈指の宿場町「小田原」で起きた殺人事件…岡っ引きの主人公とその子分のバディが事件解決に奔走する「歴史小説」』へ続く
岡村 直樹(ライター)