余命3ヵ月「鼻に酸素チューブをつけたまま」大ネタを遂行...肺疾患で苦しんだ「笑点」の桂歌丸さんが最期になっても迷わなかったこと
使命感を持って生きた
コロナ禍の緊急事態宣言が解除されてから1年が経ち、生活は以前の状態に戻った。しかしなぜだろう。町には出られるようになったのに。友人や家族と自由に外食できるようになったのに。なんとなく、ただぼんやりと毎日を過ごしているだけのような気がする。不謹慎を承知で言えば、「コロナになるかもしれない」という恐怖を感じていたあの頃のほうが、一日一日を懸命に生きていた気がしないだろうか。 【写真】かつて死は日常に存在していた...100年前の『死後写真』が教えること 〈人は、いつか必ず死ぬということを知らなければ、生きていることを実感することができない〉 ドイツの哲学者・ハイデガーが残したこの言葉は、死から目を逸らそうとしている人に「そんな態度では、いきいきとした人生を送れませんよ」と語りかけてくるようだ。結局、生を実感するには、しっかりと死を見つめるしかない。しかし、どうすれば美しい最期を迎えられるのだろうか。 その答えはすでにこの世を去った人たちの姿から学ぶしかない。「見事な最期だった」と言われる人たちの逝き方には、共通点があるのだ―。 「師匠が肺疾患で亡くなったのが'18年。81歳のときでした。今年は七回忌を迎えます。早いもんですね。日本人男性の平均寿命までは生きたので、それだけでも『いい最期だった』といえるんじゃないでしょうか」 落語家・桂歌丸さんの死を明るく振り返るのは、桂歌春さん。'79年に歌丸門下に入り、師匠が亡くなるまで側に居続けた一番弟子だ。 '10年頃から体調を崩しはじめた歌丸さん。'16年には「笑点」を勇退し、闘病生活を送る一方、亡くなる直前まで落語家として高座にのぼり続けた。歌春さんはそんな師匠の晩年の姿から、芸人としてどう生きるべきかを学んだという。 「みなさんご承知の、あの細い体ですからね。亡くなるまでの数年間は本当に苦しかったと思いますよ。師匠は入退院を繰り返していましたが、入院しているときはただの病人。少ない髪がボサボサで、ヒゲも伸びて顔つきは暗い。落語に出てくる死神のような風貌でした(笑)。 でもね、師匠は使命感を持っていたから決して弱音を吐きませんでした。落語は日本の伝統文化だから、しっかりと後世に継いでいかなければいけないという使命です。自分の後先はもう短いかもしれないが、ひとつでも多くネタをやってこの世を去りたいと思っていたので、晩年も不思議なほど生き生きとしていたんです」 しばらくの間入院しても、歌丸さんは退院の日が決まると「よし、じゃその次の日から高座にのぼるよ」とすぐに準備をはじめたという。 「高座の座布団に座ると、ベッドで寝ていたあの姿がウソのように元気になる。あれは本当に見事でしたね。最期の瞬間まで何かをやり遂げてやるという意志を持って生きる人は強いな、と思いました」
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