メジャーとマイナーの垣根が取り払われた現在こそが理想。パンクの哲学者・the原爆オナニーズ・TAYLOWが饒舌に語る理由
バンド事始め。原爆オナニーズとthe原爆オナニーズ
“the原爆オナニーズ”の活動開始は1982年だが、「the」が付かない“原爆オナニーズ”はそれよりも前に結成されている。 「1980年夏にスタークラブからギター・ヴォーカルのRYOJIO(原爆オナニーズでは「良次雄」)とドラムのOHGUCHI(同、「大口ミキオ」)くんが抜け、そこに、ピブィレヌを抜けたベースのHikoちゃんと、スタークラブにいたBUKKA(同、「ブッカ」)がギターで入り、その4人で、各メンバーがリーダーの4つの名前を持ったバンドはスタート。 良次雄がリーダーの時は原爆オナニーズというバンド名で、活動を始めました。 でも半年ぐらいで消滅しちゃって、大口ミキオを中心にニューロンという新しいバンドが始まったんです。僕は、ニューロンの練習に遊びにおいでと誘われ、そのままズルズルと不定期なメンバーになったんですよ」 1982年3月にEDDIEがスタークラブを辞め、ニューロンにゲスト参加する。ニューロンは20分もあるアヴァンギャルドなポストパンクの曲を演奏するバンドだったが、EDDIEが「原爆やろうぜ」と良次雄に置き手紙した。 すでに解散した“原爆オナニーズ”のレパートリーは、良次雄が作ったスタークラブ路線の曲が中心だったが、大口ミキオの意向に添い、ニューロンでそうした曲を演奏するようになった。そこで改めて原爆オナニーズを復活させることを決め、心機一転のためバンド名に「the」を冠し、1982年5月、新しいスタイルの曲を作り始めた。 1983年2月に大口ミキオが、1982年3月に良次雄と中村達也(大口に代わり参加)が脱退する。 1983年4月、SHIGEKI(ギター)、1983年5月にMAKOTO(ドラムス)が加り、新たなメンバーとなったthe原爆オナニーズが再度スタートする。 「the原爆オナニーズとして最初に作ったのは、『発狂目醒ましくるくる爆弾』。あれは2コードぐらいでガーっというロックをやりたくて、イギー・ポップみたいなリフだけがあるところに歌詞を載せたスタイルの曲です。 エディと僕が中心となって原爆を立て直していった当時、僕はザ・サイケデリック・ファーズ(1977年にイギリスで結成された、ポストパンクの代表格バンド)と4スキンズ(1979年からイギリスで活動する、スキンズカルチャーを象徴するOi!パンクバンド)にハマっていたんです。だから、サイケデリック・ファーズのようなのっぺらぼうで突き進むリズムに、4スキンズみたいな激しさをくっつけた曲を目指しました。 原爆が他のパンクバンドとちょっと違って見えるのは、そんな風に80年代のポストパンク色を強く持っているからだと思います」 1984年4月、the原爆オナニーズは7曲入りファーストEP『JUST ANOTHER the原爆オナニーズ』を発売する。限られた曲数の中に、多角化する当時の最新パンクカルチャーを反映させた、画期的なレコードだった。 「『JUST ANOTHER the原爆オナニーズ』に入っている曲のなかで、『No No Boy』だけはOi!だけど、『Life Is A Gamble』や『Propaganda』なんかは完全にポストパンク。エイリアン・セックス・フィーンドやセックス・ギャング・チルドレン(ともに1982年からイギリスで活動していたポストパンクバンド。当時は“ポジティブパンク”、のちには“ゴシックロック”などともジャンル分けされた)みたいな感じだからね」