私のモットーだった、創造的な仕事をするための3つの条件~ソウル、インチョン(後編)【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
■10余年で変わったこと ナムとの共同研究の話やMERSの研究のことは、これから折々に紹介する機会があると思う。しかし、この出張でとにかく私が痛感したのは、周囲の私に対する接し方である。 約10年前に訪韓した30歳前後の私は、無名であり、若かった。周囲は私を雑に扱ったし、私はそれを気にも留めなかった。ビールやマッコリを飲み散らかし、デタラメな英語や韓国語やジェスチャーを駆使して体当たりで接した。そうやって、2012年のソウルでつながりを持ったのが、フランス・パリにある、「本丸」たるパスツール研究所のジェームス・ディサント(James Di Santo、ジム)教授である。 2012年4月、韓国・ソウルで開催された研究集会でジムと知り合った。それをツテに、翌5月にはパリに押しかけ、パスツール研究所で講演をさせてもらった。同じくパスツール研究所の教授であるオリヴィエ・シュヴァルツ(Olivier Schwarz)とも、このときの押しかけセミナーで知り合った。 この連載コラムの40話では、2023年にG2P-Japanのメンバーと一緒に訪仏し、ジムやオリヴィエと再会したエピソードを紹介したが、そこには実はこんな背景・裏話があったのだ。2012年から11年のときを経て私は、今度は東京大学の教授という立場で、パリで彼らと再会したわけである。 ――と、エピソードとしては、創作なんじゃないかというくらいキレイにオチのついた話である。実際、11年前に突然やってきた英語もままならないよくわからない極東の小僧が、東京大学の教授になって会いにくるとはジムもオリヴィエも思っていなかったであろうし、もちろん私自身だって、11年後にそんなことになるなんて、当時は露ほども思っていなかった。 しかし、ここで言いたいのはそういうことではなくて、約10年前に感じたようなドキドキ感、冒険感が、今回の韓国出張ではまったくと言っていいほど感じられなかった、ということである。それはひとえに、私が10余年の歳をとり、少なからぬ知恵を身につけ、ある程度名が知られるようになったからにほかならないのだろう(そしてだからこそ、今回の訪韓の主たる目的である、韓国の国際学会からもお声がかかったのだろう)。 しかし、かと言って私は、大所高所から偉そうに講釈を垂れるような性格ではない(そんな性格であれば、『週プレNEWS』でコラムなど書いてはいないだろう)。そういうこともあって、自分で自分の現在の立ち位置をうまく掴めないでいる。 ――「若いこと、貧乏であること、無名であること。これらが創造的な仕事をするための3つの条件である」。 これは毛沢東の言葉であるが、これが私のモットーのひとつであることを思い出す機会となった。そういうマインドでずっと研究をしてきたし、G2P-Japanの立ち上げだって、まさにそういうマインドをきっかけに始まったものだと思う。今回は期せずして、それを痛感する出張となった。 若くなく、無名でもなく、そしてあるいは貧乏でもなくなった場合、どうすれば創造的な仕事をすることができるのだろうか――。 文・写真/佐藤 佳