人類究極のナゾ、「言葉」とはなにか…日本の哲学者が出した「驚きの答え」
ものは言葉で分節される
それに対して、第二の見方の方は、ものは言葉以前にあらかじめ分節されているのではなく、言葉とともに、はじめて分節される、つまり言葉によって世界の見え方、あるいは世界の現れ方が決まってくる、という考えと結びついている。 具体的な例を挙げて説明することにしたい。たとえば「青い」ということばをとってみると、まず、それに対応するものが世界のなかに客観的に存在しており、日本語を使う人はそれを「青い」ということばで、英語を使う人は “blue” ということばで言い表しているというようにも考えられる。 しかし厳密に見てみると、どうもそうではないことがわかってくる。日本語ではたとえば「草木が青々と茂っている」と言ったりするが、実際には緑色のことである。「青信号」といったことばもそうであるが、「青い」という日本語は、緑色系統の色をも指すことばとして使われてきた。黄色(yellow, gelb...)にせよ、赤(red, rot...)にせよ、それぞれの言語でそれが指す範囲は少しずつ異なっている。 別の例を挙げれば、日本語では樹木と材木をともに「木」と表現するが、英語では樹木の方は “tree” 材木の方は “wood” と、ドイツ語では樹木は “Baum” と材木は “Holz” ということばで表現される。そして “wood” や “Holz” ということばは材木という意味だけでなく、森という意味をももっている。それに対して日本語の「木」や「材木」が森という意味で使われることはない。 こうした例を手がかりに考えると、以上に挙げた二つの見方のうち、第二の見方の方が、言葉の本質をとらえていると言えるであろう。日本語なら日本語、英語なら英語、ドイツ語ならドイツ語というように、それぞれの言語において、いわば一つの連続体であるような知覚対象(自然)が、独自の仕方で区分(分節)されているのである。つまり、それぞれの言語においてそれぞれの仕方で、知覚対象に切れ目が入れられ、そのそれぞれに独自の名前(青や赤、blue や red)が付けられているのである。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田正勝