旧式砲ながら転生して仇敵M4シャーマンを撃破!【38式15cm榴弾砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 日本は明治維新以降、ヨーロッパ列強を手本にして工業力や軍事力の向上に努めてきたが1904年、あろうことかその一国であるロシアと戦端を開く事態となった。そうなる可能性は事前にある程度予測できていたものの、相手は名にし負う陸軍大国だ。 そこで日本陸軍は、ドイツの兵器メーカーの老舗クルップ社に、近代的な駐退復座機を備えた火砲を3種類急ぎ発注したが、その中のひとつに15cm榴弾(りゅうだん)砲があった。しかし完全な新設計では戦争に間に合わないため、同社では、手持ちの既存のモデルに日本側の要望を盛り込んで同砲を完成させた。 だが結局、日露戦争には間に合わず、1911年に38式15cm榴弾砲として制式化されたのだった。 38式15cm榴弾砲は重量のある砲で、ドイツでは馬8頭での輓曳を行っていたが、ヨーロッパの使役馬に比べて日本の使役馬は非力であった。そのため分解して貨車に載せての移動が行われたが、設計の時点で分解搬送は考慮されていなかった。ヨーロッパの軍隊では、このクラスの砲を野戦で分解・組立するという発想が希薄だったのだ。ゆえに分解と組立には相応の時間が必要で、移動、展開、撤収に大きな労力が求められた。 当然ながら国産化もされたが、やがて新型で、より日本陸軍が使いやすく設計された4年式15cm榴弾砲が登場すると、徐々に交代が進んで二線兵器扱いとなった。しかし日中戦争の勃発により、旧式で使い勝手が悪いとは言っても、長年用いられてきたため運用ノウハウが蓄積されている38式15cm榴弾砲は、重砲の不足を補うべく一線兵器として返り咲いた。そしてそのまま、太平洋戦争でも運用されたのだった。 太平洋戦争の頃には、38式15cm榴弾砲は、使い回しに手間のかかる旧式な野戦重砲と見なされていた。そこで日本陸軍は1944年、97式中戦車の車体に限定防御の開放式固定戦闘室を設け、そこに同砲を砲架ごと搭載した4式15cm自走砲(通称:ホロ車)を開発。機動性の問題が解消されたため、ホロ車は好評を持って迎えられた。 そして3両編成の1個中隊が1945年初頭のフィリピン・ルソン島の戦いに参加。大威力の15cm榴弾砲を用いて、伏撃と自走砲の機動力を生かした頻繁な射座移動を組み合わせた巧みな対戦車戦闘を実施。非力な日本戦車にとっての仇敵たるアメリカのM4シャーマン中戦車を数多く撃破している。 ホロ車はまた、日本本土決戦のため国内にも備蓄されていた。本車のケースは、砲自体は旧式ながら、運用方法の工夫によって、その威力を発揮させることができた好例といえよう。
白石 光