「平和は願うものではなく、努力して得られるものだ」 米兵を処刑した元戦犯の息子と処刑された米兵の孫 慰霊祭で共に平和を誓う
■横浜軍事法廷判決は絞首刑 一週間後、横浜軍事法廷で、堅太郎さんの判決が言い渡されました。 冬至堅太郎さんの日記 (1948年)12月29日 水 晴 「遂に来(きた)るべき判決の日は来た。絞首刑!これが私に与えられた判決である。」 ■朝鮮戦争勃発後、終身刑に減刑 死刑囚の棟に移され、死刑が執行されるのために連れて行かれる26人の仲間を見送った堅太郎さん。 1950年、朝鮮戦争勃発後に、終身刑に減刑されましたが、1958年、最後まで止め置かれた18人の一人として出所式に参列しました。 ■自宅に4体の地蔵を建立 自分が手をかけた4人のアメリカ兵のために、自宅に4体の地蔵を建立した堅太郎さん。 1983年、68歳で亡くなりました。 亡くなった後、地蔵は油山観音に納められました。 ■「辛くとも生きなさい」住職の言葉 今年2月、東京にあるお寺を訪ねた克也さん。 このお寺の住職だった田嶋隆純さんは、戦犯たちが収容されたスガモプリズンの教誨師(きょうかいし)でした。 隆純さんの長女 田嶋澄子さん(84)「まあお父さんとそっくりね。」 冬至克也さん「兄弟の中で私が一番似てるって周りから言われます」 教誨師として仏の道を説くよりも戦犯たちの助命運動に奔走した田嶋さんへ戦犯たちが贈った文集がありました。 「冬至さんの苦闘記みてください」 「まさしく父の字だなあと」 堅太郎さんが書いた「苦闘記」には、米軍に囚われる前に自決を考えていたところ、油山の住職に止められたとありました。 「苦闘記」より 「敵とか味方とか、一家の名誉とかそんなものにとらわれなさるな。生きなさい。短いが仏に頂いた大切な命です。辛くとも生きなさい」 ■我が子と、私が処刑した米兵の子 堅太郎さんがスガモプリズンで詠んだ歌です。 「わが子らとわが処刑せし米兵の子が相あはむこともあらむか」 油山観音で行われた、20日の慰霊祭には、西部軍が関係する処刑で亡くなった約40人の写真が掲げられました。