遠藤一彦は1年遅れでプロ入りした江川卓を見て「ライバル心なんて芽生えていなかった」
それで2年目は12勝12敗。シーズン当初は先発でスタートしたのですが、7連勝したあとに肩が上がらなくなったんです。要するに、一軍のローテーションに体がついていけなかった。1カ月半ぐらい休養して一軍に戻ってきた時、長いイニングは苦しいだろうから、短いイニングを投げさせようと配慮してもらい、うしろを任される形になりました」 遠藤は先発にこだわっていたわけではなく、投げさせてもらえればどこでもいいという気持ちでマウンドに上がっていた。80年代初頭までは、ローテーションはあったものの戦況によって先発投手がリリーフに回ったり、フル回転するピッチャーが各球団にひとりはいた。ただ遠藤はそれには当てはまらず、故障明けということでリリーフに配置された。 その遠藤のプロ2年目の79年は、江川が巨人に入団した年だ。 「2年目に江川が1年遅れでプロ野球に入ってきました。江川はジャイアンツかっていう感じで。その年は投げ合うこともなかったですし、まだまだレベル差は歴然で、ライバル心なんてまだ芽生えていなかった。江川は1年目9勝、2年目16勝、3年目に20勝で2年連続最多勝って......やっぱり怪物じゃないですか。 1年目にしても、1年間ブランクがあって、キャンプも自粛で、ペナルティとして合流したのは6月からなのに9勝ですよ。やっぱりすごいピッチャーだなって、あらためて思いました。ただ個人としては、82年の対決で初めて江川に投げ勝てたことで、自信がつきました。あの試合は本当に大きかった」 遠藤は江川より1年早くプロ入りし、ルーキーイヤーこそ1勝しかしていないが、2年目には47試合に登板して12勝12敗8セーブ。新人王こそ逃したものの八面六臂(はちめんろっに値する活躍だった。 プロ入り3年目の80年シーズンは、チーム事情でリリーフに専念したため5勝5敗16セーブ。一方、2年目の江川は16勝で最多勝。ここから江川の全盛期が始まり、翌81年は投手5冠(最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、最多完封)を含む20勝を達成。そして遠藤はこの年、シーズン途中から先発に復帰するも、8勝11敗2セーブに終わり、完全に後塵を拝する形となった。 (文中敬称略) 後編につづく>> 江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin