遠藤一彦は1年遅れでプロ入りした江川卓を見て「ライバル心なんて芽生えていなかった」
「大学時代の球速はせいぜい135キロ程度。当時はスピードガンがなかったから、正確な数字はわからないけど、そんなボールでプロから指名されると思います? 首都大学リーグ通算28勝なんて、別にたいした記録ではないですから。江川は東京六大学で47勝しているわけでしょ。東京六大学と首都大学リーグの当時のレベルは、雲泥の差ですから。 大学時代は江川とオープン戦でも当たらず、投げ合ったのは4年の明治神宮大会。対戦はあの一回きりですが、最初に江川の姿を見たのは大学2年の時です。あの体型を見たら、本当に"怪物"だなと思いましたよ。僕も身長は182センチですが、プロ入り当初の体重は63キロほどで、もやしみたいな選手でしたから」 身長だけなら遠藤も負けていないが、体の厚みが違った。とくに下半身を比べると"月とスッポン"で、江川の馬尻と呼ばれた大きくがっしりとした下半身は、見る者を圧倒した。 【江川卓はやっぱり怪物だった】 思いもせずプロ野球選手になった遠藤だったが、当時は決して華やかな世界ではなかった。 「プロに入りたての頃は、ピッチャー同士でわいわいというのはなかったですね。同期でドラフト1位のカド(門田富昭)は一軍にいて、結婚もしていたから寮ではなかったし......。ただ、作新で江川の控えだった大橋(延康)は寮にいて、年齢も同じだったからけっこう喋りました。当時の寮は等々力にあって、日石の寮の並びに建っていました。日石が鉄筋なのに、大洋の寮はモルタルでした。学生時代も鉄筋の寮にいたのですが、プロってこういうものかと......」 仮にもプロである大洋の寮が、社会人の日本石油の寮よりも古く、さらに東海大の寮よりもみすぼらしかった。遠藤は呆れるというより「プロってそういうものか」と、納得せざるを得なかった。 「入団1年目、最初一軍に呼ばれた時は負け試合での中継ぎですね。要は経験を積ませるためです。その後、9月に先発して1勝を挙げて、すぐ『ファームに行け』です。ファームでは先発で回っていて、最多勝の防御率のタイトルがかかっていたための措置でした。