あの抱擁は苦難を乗り越えた男の成長の証だった【2023年神奈川県・高校野球ベストシーン】
2023年もあとわずか。ことしも高校球界ではさまざまな印象的な出来事があった。各都道府県ごとにベストシーンを思い出してみよう。 【一覧】慶應義塾と横浜のスタメン
【選手権県大会決勝・慶應義塾vs.横浜】
2023年7月26日、真夏の太陽が照りつける横浜スタジアムの9回表。全国高校野球神奈川県大会決勝が行われていた。マウンドには2点リードの横浜・杉山 遙希投手(3年)、打席には慶應義塾の渡邉 千之亮外野手(3年)。1死二、三塁と慶應義塾が一打同点のチャンスを迎えていた。そして、フルカウントからの内角球に渡邉がフルスイングした打球は、グングン伸びて左翼席へ。逆転3ラン。9回土壇場で、慶應義塾が試合をひっくり返した。マウンド上の杉山は、目の前の出来事が信じられない表情を浮かべていた。観客はその「劇的さ」に驚くなか、横浜の遊撃を守っていた緒方 漣内野手(3年)に視線を送っていたに違いない。 すこし時を戻そう。9回表無死一塁からの二ゴロで横浜が併殺を狙った。4ー6ー3ときれいに球が渡ったが、一塁はセーフの判定。誰もが1死一塁となったと思った。しかし、二塁塁審はセーフのジェスチャーをしていた。遊撃手の緒方がベースに触っていないという判定。緒方本人からすれば、すり足した右足の先でベースに触れたつもりだっただろうが…。横浜ベンチからは二塁塁審へ説明を求めたが判定は覆らない。無死一、二塁で試合は再開され、犠打の後、冒頭のシーンを迎えるのであった。 試合はそのまま6-5で慶應義塾が優勝し甲子園への切符をつかんだ。敗れた横浜の杉山と緒方は号泣した。2人はともに1年夏から甲子園に出場。3年連続の夏甲子園出場を目前に、悪夢を味わった。 緒方は1年夏の甲子園初戦で、9回に起死回生のサヨナラ逆転3ランを放って一躍ヒーローになっていた。体は170センチに満たないが野球センスにあふれ、勝負強さも兼ね備えていた。集大成の夏となるはずだったが、こだわり、磨いてきた守備で悲劇を味わった。野球に向き合うことができなくなり、家からも出られない日々が1週間も続いたという。 その緒方が侍ジャパンのユニホームを着て、生まれ変わった。U-18日本代表メンバーに選ばれ、二塁手として活躍。MVPを獲得し、ベストナイン、首位打者、最多得点と「4冠」に輝き、チームを初の世界一へと導いた。神奈川大会決勝後、地獄の日々を味わった男が再び輝きを取り戻した。あの併殺プレーでの自分のプレーが正しかったのかどうかを考え直した。他にやり方がなかったか…。判定を不服とすることなく、もう一度自分と向き合って前に進んでいた緒方に、野球の神様は最高のご褒美をくれた。