本郷和人 なぜ上杉謙信の大領土は「あっ」というまに失われてしまったのか…関東平定を宿願にするなかで後継者問題を招いた「謙信の失敗」
2023年に放映された大河ドラマ『どうする家康』。家康は当時としてはかなりの長寿と言える75歳でこの世を去っています。「家康が一般的な戦国武将のように50歳前後で死んでいたら、日本は大きく変わっていた」と話すのが東京大学史料編纂所・本郷和人先生です。歴史学に“もしも”がないのが常識とは言え「あの時失敗していたら」「失敗していなければ」歴史が大きく変わっていたと思われる事象は多く存在するそう。その意味で「上杉謙信のある失敗」が歴史に与えた影響は絶大だったそうで――。 信玄最大の失敗「長男・義信の自死」はなぜ起きたのか…ただの一武将・勝頼が継いだことで武田家に軋轢が * * * * * * * ◆謙信の宿願 謙信は、自分の部下、領地、そして自分を支持する勢力に大動員令を出して軍勢を編成し、軍事行動を起こそうとしたときに、トイレで倒れて亡くなりました。 その作戦の目的は、織田信長との決戦だったと言われてきましたが、今では関東の平定が目的だったと見なされるようになっています。 謙信は関東管領の職を求め、就いていた。その彼にとって、関東を平定し、かつての秩序を回復することは宿願でしたが、ほとんど果たすことができていません。 さらに言えば北条氏という、かつての秩序にはなかった存在を討つことも彼にはできなかった。北条氏康とは和睦までしています。 つまり途中で、現実路線を取らざるを得なくなったわけで、やはり彼にとって関東を昔の姿に戻すことは荷が重かった、という気がします。
◆当時の越後の国では米が取れなかった 謙信の関東進出については、また別の説もあります。 たとえば立教大学の名誉教授だった藤木久志先生が提起した「越後国が貧しかったため、謙信は略奪を行うべく関東へ進出していた」という説です。この説はセンセーショナルな話題を獲得しました。 しかし群馬が大変に豊かな土地で米が豊富に収穫できた、という歴史を持っていたのならいいですが、当時の群馬にわざわざ赴いて、新潟に帰ってみんなで食べあえるほどの食料を奪うことはできたのでしょうか。 なお越後の国は当時、米があまり取れませんでした。新潟はコシヒカリを名産とする”米どころ”というイメージがありますが、江戸末期には100万石の石高があったものの、江戸初期には35万石しか取れていません。 なぜかと言えば、米は基本的に寒さに弱いので、雪対策がきちんとできるようになるまで、生産量が上がらなかったのです。
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