日ソ戦争と認知バイアス
玉音放送後も続けられた日本とソ連の戦争。話題書『日ソ戦争』を上梓した麻田雅文・岩手大学准教授が、新資料や私たちの心理傾向から繙く。 (『中央公論』2024年9月号より抜粋)
ロシアにおける日ソ戦争の政治利用
1945年8月9日から同月末まで、日ソ両国は砲火を交えた。近年、ロシアではこの日ソ戦争が政治的に利用されることが多い。その背景には、対日関係の悪化と、中国や北朝鮮への傾斜がある。2024年6月に、ウラジーミル・プーチン大統領が朝鮮労働党機関紙『労働新聞』に発表した寄稿文はその一例である。 「1945年8月、ソビエト軍は朝鮮の愛国者たちと肩を並べて戦い、関東軍を打ち破り、朝鮮半島を植民地支配から解放し、朝鮮人民が独立して発展する道を開いた」 ここでは、北朝鮮とロシアの「同志」としての絆を強調するため、戦争の記憶が召喚されている。実際よりも美化した対日戦勝の歴史を外交上の道具にするのは、ロシアが中国やモンゴル相手にも行う常套手段である。 しかし、ロシアでも独ソ戦に比べると日ソ戦争の認知度は低い。2023年にロシア南部のヴォロネジ国立教育大学の学生150名を対象に行ったアンケート調査によると、回答者の半数が日ソ戦争と日露戦争を混同していた。同じく回答者の半数が、第二次世界大戦が始まる前に日本が中国の一部を占領していたことを知らなかった(*1)。 こうしたことから、近年は教科書で日ソ戦争の記述が増やされるなど、ロシア国内で様々な啓蒙活動が展開されている。本年9月3日の対日戦勝記念日にも、サハリン島のユジノサハリンスク(日本統治時代の豊原)や北方領土など、ロシア極東各地で記念行事が行われる予定だ。
震災で生じた認知バイアス
同様の調査が日本では行われていないので推測だが、日ソ戦争の認知度はロシアよりも日本が下回るかもしれない。では、日ソ戦争は日本にとって重要ではないと言えるだろうか。 日ソ戦争中にソ連軍が千島列島へ侵攻したことが、現在の北方領土問題につながっている。同様に、ソ連軍の満洲占領がシベリア抑留や中国・南樺太(現在のサハリン島南部)の残留邦人・残留コリアンの問題の出発点となった。こうした点からも、日本人にとって多くの悲劇につながった戦争であり、現在も未解決の問題を残す戦争だと言える。また、東アジアに広げて考えるならば、中国における国共内戦の帰趨や朝鮮半島の分断も、日ソ戦争抜きには考えられない。 詳細は拙著『日ソ戦争』(中公新書)に譲るが、本稿では現代人も無縁ではない認知バイアスの面から日ソ戦争を再考してみよう。認知バイアスとは、心の働きや歪みによって非合理的な選択をしてしまうことを説明するために作られた、心理学の用語である。 「正常性バイアス」はその一例だ。人は滅多にない出来事に対しては鈍感になると言われている。つまり、災害や事件・事故などが予測される状況でも、「まだ大丈夫」「今回は大丈夫」など、都合の悪い情報を無視、あるいは過小評価する。 例えば、2011年3月11日に起きた東日本大震災では、溺死が死因の9割を超えた。もっとも、津波の襲来は地震発生から30分ほど経っていた。地震発生直後に津波を予想した男性が大声で避難を呼びかけたが、聞く耳を持たれなかったという話もある。事情があって避難できなかった場合を除き、地震直後に避難できるのにしなかった人々には少なからず「正常性バイアス」が働いたのだろう。