日ソ戦争と認知バイアス
「正常性バイアス」の罠に陥った外交
日ソ戦争の開戦前にも、こうした「正常性バイアス」が日本の指導者層に蔓延していた。 1945年4月、ソ連は日ソ中立条約を延長しないと日本に通告した。さらに同月より、東欧から極東へとソ連軍の東への移駐が本格化する。日ソ中立条約を延長しないという通告は新聞でも報じられた周知の事実であった。しかし、日ソ中立条約は46年4月まで有効であると、日本人の多くは奇襲を考えもしなかった。 佐藤尚武(さとうなおたけ)駐ソ大使も、ソ連がただちに対日戦に加担する決意をしていない限り、条約の不延長の通告は一つのジェスチャーに過ぎないと東京へ打電した。通告したモロトフ外務人民委員からも、ソ連が参戦を決意した印象を受けなかったという。しかし、モロトフは45年2月のヤルタ会談に出席し、ソ連の対日参戦を米英に約束した張本人であった。 45年4月の時点で、ソ連はもはや対日関係でも米英と同じ陣営に属し、ソ連の動向は「厳戒を要す」と警告した宮川船夫(みやかわふなお)ハルビン総領事のように、事態を正確に分析する外交官もいた。しかし、宮中や日本政府のみならず、極東にソ連軍が集結するのに気づいていた軍部も、ソ連に和平仲介を期待し続けてしまう。 では、外相だった東郷茂徳(とうごうしげのり)はどうか。東郷を外相に選んだ鈴木貫太郎(すずきかんたろう)首相の回想によると、「東郷氏は戦争は是非終結せしめなければならぬ、そして其の為ロシアの仲介を求めなければならぬと主張し会議を引づって(ママ)行かれました(*2)」。 だが、当初から東郷はソ連に期待していなかった。高木惣吉(たかぎそうきち)海軍少将にはこう述べている。「対ソ外交」の「成否は未知数」である。色よい返事は七、八分ない覚悟が必要だ。対ソ外交以外の手を考える必要はないだろうか、と(*3)。 それでも東郷は、終戦へ導く手段として対ソ交渉を利用した。東郷のみならず、木戸幸一(きどこういち)内大臣や鈴木首相もこの路線に賛同する。しかし、手段だったはずの対ソ交渉が目的と化したことで、以下のように日本外交の選択肢を狭めることになった。 広島への核攻撃から2日後に、東郷はポツダム宣言の受諾を昭和天皇に進言したと回想する。『昭和天皇実録』によると、昭和天皇も「この種の兵器〔引用者註:原爆〕の使用により戦争継続はいよいよ不可能にして、有利な条件を獲得のため戦争終結の時機を逸するは不可につき、なるべく速やかに戦争を終結せしめるよう希望」されたとある(*4)。 だが、仲介依頼に対するソ連側からの最終的な回答が数時間後に迫っていた。東郷の参内は、昭和天皇も首を長くして待つ回答が間もなく到着すると奏上するのが目的だったと見られている。8月8日の段階で「速やかに戦争を終結せしめる」のが昭和天皇の本意だったとしても、『昭和天皇実録』の記述では、ソ連側の回答を待たずに終戦しようとしたと読むのは無理がある。 結局、ソ連側の回答は宣戦布告であった。もしソ連が宣戦布告ではなく、仲介を拒否する回答を与えるだけにとどめていたらと仮定しよう。広島への核攻撃とソ連の仲介拒否に衝撃を受けて、日本の指導者層はやはりポツダム宣言を受諾したのではないか。だが、その場合でも8月9日の長崎への核攻撃の前に決断できたかは疑わしく、3回目の核攻撃と時間の勝負になっただろう。 (後略) [注] *1 Талтынова Е.В. Советско-японская война 1945 года в исторической памяти студентов. Tractus Aevorum. 10 (3): Oceнb 2023 *2 「鈴木貫太郎(首相、20-4~8)宣誓供述書東郷外相選任事情、終戦への努力」 (国立公文書館蔵、請求番号:平11法務02992100) *3 伊藤隆編『高木惣吉──日記と情報』下巻、みすず書房、2000年、1945年5月16日条 *4 宮内庁編『昭和天皇実録』第9巻、東京書籍、2016年、1945年8月8日条 麻田雅文(岩手大学准教授) 〔あさだまさふみ〕 1980年東京都生まれ。学習院大学文学部史学科卒業。北海道大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。専門は近現代日中露関係史。ジョージ・ワシントン大学客員研究員などを経て現職。著書に『中東鉄道経営史』(樫山純三賞)、『日露近代史』『日ソ戦争』など。