『アンメット』が教えてくれた“ドラマを観ること”の醍醐味 すべてが“光”だった最終話
改めて考えたいタイトル『アンメット』に込められた思い
本作が『アンメット』、三瓶の言葉を借りれば「直訳すると“満たされない”」という意味からなっていることを改めて考える。「できた影に光を当てても、また新しい影ができ」るから、永遠に満たされることはない。「こうすると影が消えます」と言ったミヤビが実際にして見せた行動は、最終話でようやく明かされた。本作はまさにオープニング曲「縫い目」と、最終話においてそれが引用された場面のように、記憶障害を患うミヤビが、書き綴った日記を読み、記憶を繋ぎ合わせることで補完し、明日に繋げていく話であるともに、三瓶が、困難とされた手術によって、彼女の「今日を明日に繋げ」る話でもあった。 それと同時に、ドラマ自体が「満たされない」状態で続くことを示していたのかもしれないとも思う。つまりは、いくつかの欠落したままのミヤビと三瓶の物語のピースが、最後の最後に揃うことで、ようやく本当の意味で物語が「満たされ」、ドラマは終わった。つまり、最終話で明かされたケープタウンでのエピソードこそが最後の1ピースだった。 本作のポスタービジュアルは、一見ミヤビの笑顔の一部が歪み引き伸ばされているようにも見える。だが、今見るとそれは、彼女が覚えていない記憶を含め、無数の過去の彼女の蓄積によって、今の彼女の笑顔があることを伝えているのではないか。「毎日少しずつ積み上げてきたすべての記憶が未来の自分を作っている」と第1話冒頭のミヤビは言った。当然ながらドラマで語られることだけが彼女の人生すべてなのではなく、私たちは、まだほんの一部しか、彼女のことを知らない。でも、描かれていない彼女の今までの人生も、「わかります」と答えた、その後の物語も、想像することはできる。それが「ドラマを観ること」の醍醐味であることを、本作は教えてくれた。「自分の中に光があったら」とミヤビが言うように。私たちはこれからもいつだって『アンメット』の物語を自分の中に灯すことができるのだ。
藤原奈緒