日曜劇場の舞台・軍艦島は大都会だった…「炭坑夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれる」と遊郭まで存在
■端島では「高いものから売れる」、島民の購買意欲は旺盛だった 島内にも購買店や労組管轄の生協などがあり、日用品から食料品までを取り扱い、安い値段で購入ができた。しかし、生鮮野菜に関しては島内でほとんど生産されていなかったため、アキナイ(島外から搬入しての行商)から購入するしか手段がほとんどなかったという。これも、「軍艦島は高いものから売れる」と言われていた一因かもしれない。 端島の生協売店には実演販売が来ることもあった なお、アキナイに行った行商が、島内でパンやお菓子などを高浜で待つ家族に購入していく姿も見られた。軍艦島はいわば都会であり農村の高浜にはないものが軍艦島では手に入れることができたのだ。青空市場は島民だけでなく、近隣地域に暮らす住人にも、多大な影響を与えていたのだ。 ■出前も仕出しもオッケー、意外に充実した食生活事情 買い物といえば、軍艦島ではテレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器だけでなく写真機も各家庭に揃っていた。そのため、子どもの運動会などではこぞって写真機を構える姿が見受けられていた。他にもラジオや、そこまで広くない住宅にもステレオやソファを買い込むなど、お金には余裕がある生活を送っていたことがうかがえる。 軍艦島にはいくつかの飲食店が存在していた。日給社宅18号棟の1階には「厚生食堂」という食堂があった。戦前に会社の福利厚生施設として運営していたため、この名前が付けられた。和洋中さまざまなメニューを提供し、島民に愛された食堂だった。チャンポンやうどんの他、奥にある窯ではパンが焼かれていた。特に人気だったチャンポンは現代に受け継がれ、当時の味を再現してインターネットで販売がされている。 厚生食堂では他にも豆腐を作ったり、年末には餅つきをしたりしていた。餅の配達をするアルバイトもあったといわれている。また、島内電話を使って出前注文ができ、運動会の弁当を配達するなど島民の生活に密着していたお店だった。厚生食堂の隣の17号棟には、朝鮮人が切り盛りする「宝来亭」という中華料理屋があった。 30号棟の1階は商店街になり、そのひとつが「ニコニコ食堂」という食堂だった。1階の半分の面積を店舗が占めていて、1階の残り部分と2階に従業員が住み、3階は住居兼商店街の会合などにも使われていた。会社の寮である菊池寮で宿泊客や会社の酒宴があった際には、そこへ会席膳を運んでいた。夜は酒場になり、客は女給さんを相手に一杯飲んだあと、島内に点在していた遊郭に流れてゆく人もいたそうだ。島で一番賑やかな場所だったという。