近衛文麿の「首相就任」に「警戒の色」を示していた「意外な大物政治家」の名前
近衛新体制のはじまり
2024年8月、歴史家の伊藤隆さんが亡くなりました。昭和戦前期の政治史の研究者として知られ、多数の著書を残しています。 【写真】西園寺公望って、こんな顔だったのか…! なかでもよく知られているのが『大政翼賛会への道 近衛新体制』という著書です。 同書は、近衛文麿が首相となり「近衛新体制」がはじまった1940年の前後の日本政治のあり方を、さまざまな角度から照らすもの。 ウクライナやイスラエルで戦争がつづくいま、太平洋戦争に突入する前夜の日本の政治の状況を知ることには意味がありそうです。同書は、当時の日本について多くのことをおしえてくれます。 たとえば、近衛新体制の発足(1940年)を、周囲がどう受け止めていたかについて、このように記されています。意外な人物が、近衛体制の発足に警戒の色を示していました(読みやすさのため、改行を編集しています)。 〈昭和一五年(一九四〇)七月二二日、近衛文麿は三年前につづいて二度目の内閣を組織した。この日午後七時に参内した近衛は閣員名簿を天皇に捧呈し、八時には宮中で近衛首相の親任式、九時に閣僚の親任式が行なわれたのであった。 翌二三日夕、近衛は「大命を拝して」と題するラジオ放送を行なった。その中で彼は、世界情勢の一変に対応して国内体制の一新を図らねばならぬとし、とりわけ、政党を「立党の趣旨において、自由主義をとり、民主主義をとり、或は社会主義をとって、その根本の世界観人生観が、既に国体と相容れ」ず、またその目的が政権争奪にあることは「立法府における大政翼賛の道では断じてない」として非難した。〉 〈そのほか、日本独自の立場で外交をすすめること、そのためにはまた、日本経済を外国依存から脱却せしめて、満州・中国との提携、南洋方面への発展を要すること、国民生活は確保するが、しかし増産と節約が不可欠なこと、個人の創意を重んずるが、種々の統制は不可避だということ、教育の刷新が根本だということなどをのべた。 この放送を元老西園寺公望も聞いていた。彼は翌日訪れた秘書の原田熊雄に向って「昨夜近衛の放送を聴いたが、声はいいし非常によかった。しかし内容はパラドックスに充ちていて、自分には少しも判らなかった。うまくやってくれればいいが」と語った。 近衛内閣の成立に当って元老西園寺は、近衛の登場に批判的ではあったが、重臣会議の結果をもって興津に来訪した松平康昌内大臣秘書官長に対し「自分は老齢でもあり、この間中病気していて、世の中のことが的確には判らない。その自分が判ったふりをして、賛成して見たり御下問にお答えしたりして、材料を与えるのは、却って忠節を欠く所以だから、この奉答は御免蒙りたい」と答えて、近衛について何もいわなかった。 かつて自分の後継者として期待をかけていた近衛に対し、個人的には「うまくやってくれればいいが」といいつつも、あくまで反枢軸、親英米を外交路線とし、リベラルな姿勢を失わなかった西園寺は、近衛のもっていた「革新」的姿勢には批判的であったのである。〉 〈この年一一月二四日、西園寺は彼の期待していた自由主義が世の中から完全にといっていいほど一掃され、そして彼が最も避けたいと考えていた日米の衝突が、一歩一歩近づくのを憂慮しながらこの世を去ったのであった。九十二歳であった。 すでに多くの政党人がかつてのように議会主義擁護の声をあげず、むしろ新しい事態に適応しようとしていた中で、依然議会主義を標榜していた少数者の一人鳩山一郎がこの放送を聞いたかどうかはっきりしない。 だが、軽井沢にいた鳩山はこの月一日に、ジャーナリストの山浦貫一から米内光政内閣総辞職が近く、近衛が次の首相となって新党を組織しはじめる形勢だから至急上京するようにとの連絡を受け、「近衛により内閣が自由の立場に立って政策の実行出来得べしとは考えられず、陸軍が倒すとの事故、陸軍が更に指導的地位を継続すべく、かゝる渦中に投じて只其日を送る事を欲せ」ずとして上京しないことに決した旨を日記に書き留めた。 さらに七月一六日の米内内閣総辞職の報に「陸軍の一部により倒さる。変態は何時迄つゞくか?」と書き記している。鳩山も近衛内閣の登場を冷やかに迎えた一人であり、しばらくのちの一〇月一五日には「近衛に日本を引き廻されては堪えきれない」とまで日記に書くほど批判的になっているのである。 しかし西園寺や鳩山のような第二次近衛内閣の迎え方は全くの少数派であった。近衛新党を待望していた既成政党の主流も、新党のリーダーシップをねらっていた社会大衆党も、「革新」派の官僚や運動家も、そして何よりも軍部が、近衛内閣の登場を歓迎した。また観念右翼や「現状維持」派も多くは警戒はしながらも、近衛しかないとして好意的に評価した〉 近衛を歓迎する多数派のなかにあって、西園寺と鳩山、二人の大物政治家がどのような意味で警戒を示していたかを知っておくことは、現代社会を考えるうえでも役に立ちそうです。 * さらに【つづき】「近衛文麿の「首相就任」、その裏にあった「陸軍の思惑」をご存知ですか…? 気鋭の政治家と軍部の複雑な関係」でも、近衛新体制が確立する前後の様子を解説しています。
学術文庫&選書メチエ編集部