黒柳徹子 開戦後に亡くなった弟のことを「なんにも覚えていない」理由とは。ようやく疎開先が決まったそばから東京に戻ることになり…
◆疎開 その年の夏、ママは疎開(そかい)する決意を固めた。 まず考えなければならないのは、どこに疎開するかだった。 東京生まれのパパには田舎(いなか)がなかったし、ママの故郷(ふるさと)の北海道は東京からは遠すぎた。 そこでママは、パパを1人東京に残し、まだ小さい3人の子どもを連れて疎開先探しの旅に出たのだった。 最初の候補地は仙台(せんだい)だった。 どうしてかというと、ママのパパ、つまりトットのおじいさまは、仙台にあるいまの東北大学(とうほくだいがく)医学部を卒業してお医者さんになったので、それなりに縁(えん)のある町だったからだ。 ママは、トットたちを引き連れて仙台駅に降りると、駅前をぐるりと1周した。ところが、ピンとひらめいたものがあったらしい。 「ダメだわ、絶対ここは空襲(くうしゅう)がある」 ママの予言は当たっていた。 翌年の7月、仙台はB29の大空襲に見舞(みま)われ、市街地は見渡(みわた)す限りの焼け野原となった。 北海道の大自然の中で生まれたママには、危険を察知する動物的な勘(かん)が備わっていたのかもしれない。
◆飯坂温泉 仙台への疎開をあきらめると、今度は福島へ向かった。 福島駅に降り立つと、通りがかりの人に「このへんで疎開できそうなところはありませんか」と尋(たず)ねてまわった。 「それなら飯坂温泉(いいざかおんせん)がいいべな」と教えられ、バスに揺(ゆ)られて飯坂温泉に到着(とうちゃく)した。 飯坂温泉に温泉客など一人もいなかった。トットが足の治療(ちりょう)のために湯河原温泉で過ごしたときは、町のいろんなところから湯気が出ていて、大人も子どももポカポカ上気(じょうき)した顔をしていて、とても活気があった。 湯河原とのあまりの違(ちが)いにびっくりしたけど、考えてみればそのころは、戦況(せんきょう)もかなり悪化していたので、呑気(のんき)に温泉にやってくる人なんて、いなかったのだろう。 何軒(なんけん)かの旅館をまわって、疎開先を探していることを伝えると、ある旅館のおじさんが「うちの旅館のひと部屋を貸してやっぺい」と請(う)けあってくれた。 ママはほっとしたように「よかったわねえ」と言って、トットの手を握(にぎ)った。でもそのとき、トットの目はあるものに釘(くぎ)づけになっていた。 親切なおじさんがはいている、ズボンともパンツともつかない、うすい小豆色(あずきいろ)のだらんとしたものはなんだろう? トットたちがはく、ブルマーの長いのみたい。 そのおじさんは夕涼(ゆうすず)みの最中だったのか、団扇(うちわ)をパタパタとあおぎながら立っていたけど、その長いブルマーをはいている姿が、二本足で立ち上がった動物園の動物みたいに見えた。 トットは好奇心(こうきしん)を抑(おさ)えられなくなってしまった。 「ママ、あのおじさまが、はいているのはなに?」 「あれは、サルマタというのよ」 ママが小声で教えてくれた。 トットは「本当だ! おじさんの足、サルみたい」と笑ってしまいそうになった。 いまにして思えば、大人にしては少しだらしない格好だったけど、トットは「サルマタ」という響(ひび)きが気に入ったし、この温泉に疎開したら、東京とはまた違う楽しい人たちや、きれいな自然や、はじめて見る動物たちとも触(ふ)れあえるかもしれないと思った。
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