『光る君へ』でも話題の“呪詛”、実際はどうだった? 陰陽師の中に存在した明確なカースト
自らの手で呪符を作成していた伊周(三浦翔平)の異様さ
式神による呪詛は術者にとってリスクを伴う行為だった。『宇治拾遺物語』には、蔵人少将という将来有望な若者がカラスの姿をした式神に狙われる話がある。その式神は、陰謀に気づいた安倍晴明の「身固(みがため)」と呼ばれる呪術によって追い返されるのだが、主の元に帰ると、主を殺してしまうのだ。式神というのは、何らかの形で目的を達成するまで活動し続けるものだったようだ。 ここまで呪詛の担い手として陰陽師を取り上げてきたが、実は貴族階級の陰陽師が私的な呪詛を行うことはなかった。安倍晴明にいたっては人を害するために式神を使った記録が存在しない。というのも、呪詛を行えば律令によって重い刑罰が科されるからだ。呪物を用意したり、計画を立てるだけでも強制労働の刑に処された。資金に困らない貴族が、自らの身を危険に晒して、誰かから呪詛を請け負う理由がなかったのだ。 平安時代中期に呪詛を行っていたのは「法師陰陽師」と呼ばれる庶民の陰陽師たちだった。「法師」と頭に付くのは、僧侶として生きていないにもかかわらず、僧侶の格好をしていたからだ。貴族たちにお祓いの文化が根付き、膨れ上がった陰陽師の需要に応えるべく登場したのが法師陰陽師だった。当時の都の住人が貴族層だけでも2万人ほどいたことを考慮に入れると、法師陰陽師の数は数百人は下らなかっただろう。とすると、貴族階級の陰陽師はいつも30人程度だったので、世の陰陽師はほとんどが法師陰陽師だったのだ。 これらをふまえると呪詛に狂う『光る君へ』の伊周の姿の異様さが際立つのではないだろうか。巷に溢れる法師陰陽師の手を借りず、自らの手で呪符を作成していた伊周の心中は、呪詛返しによるその身の危険を顧みないほど怨念に支配されていたのだ。 参考 繁田信一『日本の呪術』(MdN新書)
倉田シウマイ