プロレスに憧れた空手家が大仁田厚の異種格闘技戦で大乱闘。後川聡之「ガチでやっていましたね」
『格闘技の祭典』とは『空手バカ一代』の原作者でもある梶原一騎の追悼興行として、実弟で作家の真樹日佐夫が中心となり88年から年に一度開いていた格闘技イベントだ。その中身は真樹が深く関わっていた空手やキックボクシングのみならず、プロレス、異種格闘技戦も盛り込むなど何でもありだった。 今でこそ格闘技とプロレスは異なるジャンルとして区分けされているが、当時はまだクロスオーバーしている時代だった。その受け皿として『格闘技の祭典』は格好の舞台だった。 このときの大仁田はFMWを旗揚げする直前で、好敵手を欲していた。そこで白羽の矢が立ったのが愛知県で空手道場を切り盛りしながら空手家として現役を続けていた青柳だった。プロレスが勝つのか? それとも空手が勝つのか? 奇しくも、ともにこれが異種格闘技のデビュー戦だった。 試合中、大仁田が青柳に対して思い切り反則をする場面を目の当たりにすると、リングサイドにいた後川は激昂した。 「何をやっているんや!」 大仁田と青柳が場外でやり合う中、セコンド同士も熱くなってしまい、リング上は大乱闘に。大仁田のセコンドには若手時代のスペル・デルフィン、邪道、外道らが就いていたが、後川は「殴り合いになってしまいました」と振り返る。 「ガチでやっていましたね」 後川にとっては、これが幻のプロレスデビュー戦だったのか。当時まだプロレスが何なのかが全くわからない純粋な少年だった。そうした中、格闘技とプロレスの違いを教えてくれる人がいた。ショックだったが、前を向くしかなかった。「真剣勝負で闘いたい」という揺らぎない信念を胸に抱いていたので、やることはひとつしかなかった。 「だったら僕は空手のほうで頑張ろう」
当時の正道会館は"K-1前夜"ともいえる過渡期で、年に一度開催の全日本選手権では1988年開催の第7回大会から闘う舞台を4本ロープに囲まれたリングとしたうえで、再延長からボクシンググローブ着用による顔面ありルールを採用していた。K-1のKはKARATEのそれでもある。旗揚げ5年前の正道会館のグローブ導入こそ、K-1のルーツと言えるのではないか。 筆者は90年大会から取材しているが、出場選手は正道会館勢にとどまらず、プロファイターにも門戸を開放していた。同年の大会にはシュートボクシングからのちに漫画『グラップラー刃牙』のモデルとなる平直行も出場していた。平のトーナメントの枠順は絶妙のマッチメークで、勝ち上がるにつれ強い対戦相手が用意されていた。 その流れはまるで映画『死亡遊戯』のクライマックスで主人公のブルース・リーが五重の塔を上がるにつれ強敵が待ち受けているシチュエーションと酷似していた。筆者は「やり方次第では真剣勝負でもこんな面白いマッチメークができるのか」と感銘を受けた記憶がある。 後川は「僕が初めて全日本選手権で優勝した90年、あるいは2連覇を達成した翌91年あたりから正道会館にはK-1みたいなものが始まっていくだろうという空気がありましたね」と言う。「だから僕はグローブ着用をすんなりと受け入れることができました」 92年1月には過去の回で記した『トーワ杯 第1回カラテ・ジャパン・オープン』が開催された。後川のトーワ杯への出場は翌年の第2回大会からとなるが、「第1回トーワ杯がある頃には、もう完全に顔面ありの試合を想定した練習をしていましたね」と言う。 しかし、後川にとっての試練はのちにK-1として結実するグローブ空手だけではなかった。時の流れに呼応するかのように、寝技や関節技を駆使する組み技格闘技の世界にも足を踏み入れていったのだ。 (つづく) 文/布施鋼治 写真/長尾 迪