「天皇と政治」の調整手探り
初代宮内庁長官(在任1949~53年)だった田島道治はそれまでの宮内大臣、宮内府長官と違って初めての民間出身でした。田島の昭和天皇拝謁記(※1)の編集にあたった龍谷大法学部准教授の瀬畑源さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】 【写真】憲法施行記念式典で万歳する昭和天皇 ◇ ◇ ◇ ◇ ――なぜ民間からだったのでしょうか。 ◆日本国憲法のもとで宮内省は宮内府になり、位置づけは大きく変わりますが、人的にはあまり変わりませんでした。新憲法に合う組織になっているかはもともと疑問を持たれていました。きっかけは昭和天皇の地方巡幸です。新憲法施行後もそれ以前と何も変わりませんでした。 連合国軍総司令部(GHQ)民政局は、天皇は日本の占領統治に必要であっても、戦前の権威的な天皇の復活はありえないという立場です。国際的にも戦前には戻らないと示す必要がありました。1947年末ごろには、民政局は、従来の宮内官僚では宮内府を変えることはできないとみなすようになりました。 民政局の意向ではあるのですが、田島を長官にした芦田均首相も問題意識を共有していました。新憲法のもとでは、天皇と政治との関係、国民との関係を新たに作る必要があると考えていたのです。その時に戦前からの意識を引きずっている人はふさわしくなかったのです。 ――戦前とは違う天皇が必要だったのですね。 ◆天皇を「象徴」としたのは、なにかを目指したというより、天皇から権力を奪うことが目的でした。「象徴」を実際にどう運営していくかは日本側に任されていたのです。芦田を含めて日本側にも、新しく作らなければならないという意識は間違いなくありました。 権力を奪ったといっても、ロボットではありません。昭和天皇は内容を何も知らないまま形式的に署名をするのはどうなのかという趣旨のことを言っています。戦後も政治との関係をどうするかという問題が残りました。 ――建前としては天皇は政治に関わらないことになっています。 ◆主導権が政治の側にあることは戦前も同じですが、権力を持っていた帝国憲法の下では、天皇への説明は義務であったため、「ご下問(質問)」という形で不満を述べ、影響を与えることができました。戦後は説明に行く義務はなくなります。しかし、戦後、天皇と政治が完全に切り離されたわけではありません。 芦田はその変化をよくわかっていました。ですから、芦田にとっても、戦後の天皇のあり方にあわせたうえで、政治との関係を調整できる長官が必要だったのです。 昭和天皇は戦前の感覚のままに、説明を聞きたいから政治家を呼べ、などと言うことがありました。その時に、止めることができる長官が必要でした。それは戦前からの宮内官僚にはできないと考えられたのです。長官選定過程の資料を見ると、宮内官僚は候補から排除されています。 芦田が長官を代えようとした(※2)のは、長官が政治家との窓口になるからです。天皇と政治家の関係を一度リセットしなければならないと考えたのでしょう。拝謁記には政治と天皇の関係を巡る記述が多くあります。天皇がどうやって政治とバランスをとるかを考えるのが田島の主な役割だったからです。 ――手探りですね。 ◆宮内庁としては政治家に天皇を利用されるのは困りますが、ないがしろにされるのも困ります。バランスをとりながら、どう慣行を作るかが問題になります。拝謁記にもどの行事に天皇が出席するかについての話が出てきます。政治家は天皇に来てほしいのですが、すべて聞くことはできません。その調整が長官の仕事です。 ――拝謁記には、政治との関わりを巡って田島が昭和天皇をいさめる場面が出てきます。 ◆昭和天皇が新憲法下における天皇の位置づけをどこまで理解していたかはいろいろな見方がありますが、私はわかったうえで言っていたのではないかと思います。戦前の経験があるために、わかっていても政治家に言いたくなることがあり、田島に言っているのは一種の甘え、愚痴ではないでしょうか。愚痴を言えるほど、田島への信頼もあったということです。 ※1 1948年に宮内府長官となり、49年から53年まで初代の宮内庁長官を務めた田島道治が、昭和天皇との対話を記録した書類。「昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録 全7巻」(岩波書店)として刊行。 ※2 田島が就任の条件として侍従長交代を求め、侍従長も更迭される。(政治プレミア)