なぜ武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いは「五回」で終わったのか?激戦「第四次」を制したのは結局どっち?本郷和人先生と現地を歩いて分かった真実
東京大学・本郷和人先生に連載いただいている『婦人公論.jp』では、そこで生まれた先生とのご縁をきっかけに「日本史ツアー」を開催しております。初回の「徳川」に続く、第2弾のテーマはズバリ「武田」。一泊二日で信玄ゆかりの地を巡り、最終目的地として甲斐武田終焉の地・景徳院に向かいました。そこで本記事では、参加者が味わった臨場感と知的興奮を読者の皆さんにおすそ分けしたいと思います。初回は「川中島・諏訪大社」です。 【写真】公園に設置された「川中島大合戦図」。武田軍と上杉軍がどう対峙したかが一目瞭然に * * * * * * * ◆「武田」ゆかりの地へ ツアー第2弾のスタートは新宿駅。あずさに乗って松本駅へと向かいます。 松本駅からはさらにバスへと乗り換えて一路、川中島へ。楽しいおしゃべりを交えながら、バスの中では先生お手製の資料をもとに、事前の解説をいただきました。 解説をふまえて整理すると、「川中島の戦い」は、信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧した甲斐国の戦国大名・武田信玄(晴信)が北信濃まで侵攻し、そこで越後国(現在の新潟県)の上杉謙信(長尾景虎)と行った戦いのことを指します。 主な戦闘は五回。1553年から1564年にかけて行われたとされますが、一般的には最大の激戦だった永禄4年(1561年)の第四次合戦を「川中島の戦い」と言い表すことが多いようです。 解説に加えて、先生からは「なぜ場所が川中島だったのか。激戦の四次を制したのは信玄と謙信のどちらだったのか。そしてなぜ五回で終わったのか、というナゾについて、現場を歩きながら考えてみてください」との宿題も。
◆なぜ川中島だったのか 一通りお話をいただいたところで、バスは長野市の川中島古戦場史跡公園に到着いたしました。 公園には武田信玄が本陣を築いたとされる八幡社が鎮座。境内には首塚や三太刀七太刀之跡などもあり、往時をしのぶことができるようになっています。 また第四次「川中島の戦い」で両軍がどういった布陣だったのか、という解説の看板や、あまりに有名な信玄・謙信一騎討ちの像も。 周囲を散策するだけでも、信玄・謙信ファンにはたまらない施設になっています。 像の前に立った先生は、あらためて解説を始められました。まず一つ目のポイント、なぜ川中島だったのか、ということ。 そもそも川中島とは、犀川が千曲川へ合流する地点から広がる土地で、古来から交通の要であった。また、有名な仏教寺院・善光寺が控えるなど、信仰的な意味でも価値が高く、武田・上杉双方にとって抑えたい要所となっていた。 それらの結果として、この周辺で戦いを重ねることになったようです。
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