日本人初の冬季五輪金メダリスト・笠谷幸生さん天国へ、72年札幌で表彰台独占「日の丸飛行隊」隊長
1972年札幌五輪スキー・ジャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)で、日本人初の冬季五輪金メダリストとなった笠谷幸生(かさや・ゆきお)さんが23日午前7時35分、虚血性心疾患で札幌市の病院で死去したことが26日、分かった。80歳だった。札幌五輪では日本選手が表彰台を独占。「日の丸飛行隊」と称され、日本中を沸かせた。葬儀は近親者で行われ、後日、お別れの会を開く。 【写真】72年札幌冬季五輪で表彰台を独占した「日の丸飛行隊」の3人 歴史を築いた伝説のジャンパーが天国へと旅立った。関係者によると、笠谷氏は2010年のバンクーバー五輪でJOCの理事として日本選手団副団長を務めた後、同シーズン限りで札幌スキー連盟副会長を退任。肺の病気を患ったため、体調を理由に仕事は断っていた。文化功労者に選ばれた18年には、すでに通院していたという。23日に虚血性心疾患で帰らぬ人となった。 美しい飛型で世界を魅了した。幼い頃、雪の斜面に小さな台を設け「完全な遊び」として、ジャンプに親しんできた。五輪は64年インスブルックから4大会に出場。上を目指す過程で、スタートから助走路の滑り、踏み切り、空中姿勢、そしていかに安全に着地するか、考えに考え抜いた結果が「空気に挟まる意識」だった。踏み切りに集中。「何しろ飛ぶのが怖い。でも怖さを乗り越えたら楽しいじゃない。スリルがあり、達成感もある」と魅力を語り、70年頃に「俺のジャンプが完成した」と技術的な手応えを得た。 3度目の出場となった札幌五輪では個人70メートル級で日本人初の金メダル。銀の金野昭次氏、銅の青地清二氏(ともに故人)と表彰台を独占し「日の丸飛行隊」と称され、日本列島を歓喜に包んだ。「3人で勝った。僕個人では勝っていないんだよ」。同大会の飛躍は、北京五輪王者の小林陵侑(チームROY)にもつながる、国内で競技の地位を高める契機になった。 76年インスブルック五輪を終えて引退後は、ニッカウヰスキーで社員を続けながら指導者として歩んだ。「しゃべるという世界がだめだった」と認める口べたで、選手と対等に話す後輩コーチを見て「俺はできなかった」とこぼしたこともあった。指導者の実績は少ないが、さまざまな立場からジャンプ界を支えた。国際審判員の資格も取り、岡部孝信、斎藤浩哉、原田雅彦、船木和喜の団体が金メダルに輝いた98年長野五輪は、飛型審判員として日本勢のメダルラッシュを見守った。今冬も、ジャンプ週間で3度目の総合優勝を果たした小林陵を「大したものだ」と感嘆したという。 ジャンプ界初のメダルを金銀銅独占で一大ブームを巻き起こした「日の丸飛行隊」。08年に青地氏、19年に金野氏が亡くなり、笠谷氏も天国に飛び立った。全日本連盟によると、後日、笠谷氏のお別れの会が催されるという。日本の底力を見せつけた笠谷“隊長”の大ジャンプは、これからも色あせない。 ◆笠谷 幸生(かさや・ゆきお)1943年8月17日、北海道・大江村(現仁木町)生まれ。余市高―明大―ニッカウヰスキー。70年世界選手権70メートル級で銀メダル。五輪は64年インスブルック、68年グルノーブル、72年札幌、76年インスブルックの4度出場。札幌大会70メートル級で金メダルを獲得。76年に引退。全日本スキー連盟理事、日本オリンピック委員会(JOC)理事などを歴任。2018年に文化功労者。170センチ。 ◆72年札幌五輪 アジアで初めての冬季五輪として2月3~13日に開催され、日本勢は90選手が参加。スキーのジャンプ70メートル級(現在の男子個人ノーマルヒル)で笠谷幸生が冬季五輪で日本勢初の金メダル、金野昭次が銀、青地清二が銅を獲得し、表彰台を独占。「日の丸飛行隊」と名付けられ、その後もジャンプ日本代表の愛称として定着した。
報知新聞社