ユヴァル・ノア・ハラリの新著『ネクサス』に、米誌記者が感じる「ハラリ的思考の限界」─AIの危険性を訴えても、シリコンバレーの世界観と矛盾しない不思議
巨視的なテーマを器用に語る
ハラリのキャリアが、いかにも無名の学者のそれから始まったことを思えば、これは驚くべき出世だ。 ハラリの最初の単著はオックスフォード大学に提出した博論をもとにしており、近世における兵士回顧録のジャンル的特徴を分析したものだった。2冊目の著書は中世ヨーロッパにおける小規模軍事行動を考察しており、それも海事を除いたものに限っている。アカデミアが自分を「より狭い問い」へと押し込んでいる、とハラリは感じていたらしい。 ハラリの方向性が変わったきっかけは、ヴィパッサナー瞑想をはじめたこと、そして大学で世界史入門の講義(たいてい若手教員に課される面倒な仕事)を受け持ったことだった。 その叙事詩的スケールが、彼には合っていたようだ。のちに『サピエンス全史』の基礎を成すこととなる、ヘブライ大学での彼の講義は、ホモ・サピエンスがライバルとなる種に打ち勝ち、地球上に溢れていく過程を魅力的に語っていた。 ハラリは大きな疑問を器用にまとめることができる。肉体的な強さは社会的地位に関係するのか? なぜ我々は芝生を気持ちよく感じるのか? たいていの学者は専門が狭すぎて、こうした問いを発することさえできない。 ハラリはこれらの大きな疑問にまっすぐ飛び込んでいく。広い範囲の事柄を理論化しようという彼の情熱は、ジャレド・ダイヤモンド、スティーブン・ピンカー、スラヴォイ・ジジェクにも通じるが、議論を刺激的に単純化するハラリの傾向は、この三者をもしのぐ。 たとえば、彼はこんな風に説明する。中世ヨーロッパにおいては「知識=聖書×論理」だったが、科学革命後は「知識=観察に基づくデータ×数学」となった、といった具合だ。 痺れる言い回しだ。もちろん、巨視的に観察することが微視的に観察することよりも本質的に啓発的であるというわけではない。我々は「一冊でわかる歴史」シリーズからも、5冊にわたるリンドン・B・ジョンソンの伝記からも同じように学ぶことができる。