能楽師・観世清和「31歳で突然の家元継承。最後の父の舞は〈闇の中の能とはこのことか〉と、今も心に残って。文化功労者認定も日々の稽古を怠らず」
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第25回は能楽師の観世清和さん。31歳の時、父であり師匠である観世左近元正師の急逝により、家元を継承する。近年は大学の授業や、子供の能楽教室も行っているそうで――(撮影=岡本隆史) 【写真】舞台姿からはとても近寄りがたい気がするが… * * * * * * * ◆日々の稽古を怠らず ユニークな父であり厳しい師匠であった観世左近元正師は、1990年8月、旅先で公演後に急逝する。満60歳になったばかりだった。 ――福岡でした。世阿弥作の『砧』を父が舞いまして、私はツレで出ておりました。前シテ(主役をシテといい、中入り前のシテを前シテ、中入り後を後シテと呼び分ける)は、都へ訴訟に上ったきり音沙汰のない夫を待ちわび、憔悴しきって死んでしまう女性です。 私はその息絶え絶えの奥方の介添えをして中入りをする夕霧という女性の役なのですが、何か、本当に弱りきっているような背中でした。 そして、父が後シテの装束を後見につけてもらっている時に、いつになく水を何杯も飲むのです。何か心配になってきましたが、後シテの川の件の謡いは実に朗々としていて、しかし少し寂しげであり、限りなく静謐。闇の中の能とはこのことかな、と今もはっきり心に残っているのです。 その時父は満60歳と1ヵ月、私は満31歳。突然の家元継承となりましたので、これがやはり第3の大きな転機ですね。
ところで私は、父上・元正師のご令弟・元昭師と大学は異なるものの同学年、同じ中世文学の教授についていたので顔見知りだった。梨園の御曹司とはひと味違う貴公子ぶりに憧れていて、ご兄弟が直面(ひためん)で勇壮に舞う『龍虎(りょうこ)』などを拝見したが、中でも私が最も心惹かれた曲は、元正師の『天鼓(てんこ)』だった。 少年天鼓の打つ鼓の音色の噂が時の帝の耳に届き、鼓を召し出すよう命じられるが、天鼓は鼓を深く惜しみ抱き隠れたので、その身は呂水に沈められ、鼓は帝の手に渡る。しかし誰が打ってもまったく鼓は音を発さない。 私はハッとして、『義経千本桜』の狐忠信の鼓がいっとき音を止める件はここから来ているのかと……。 ――そうですね。これ、歌舞伎の戯作者の教養の高さですよね。昔はお能は限られた環境での上演でしたので、どうやって取材したのかと思います。『勧進帳』にしても『船弁慶』にしても能を題材にしているのですが、その様式美のエッセンスをよく発展させて歌舞伎に作り上げたものだと思います。 『天鼓』の後シテは少年天鼓の霊ですが、前非を悔いた皇帝が呂水のほとりで供養をすると、天鼓が現れて楽しげに鼓を打って消え失せる。地獄に落ちた人間でも、その人が生きていた時の一番輝いていた瞬間をもう一度舞台で花咲かせてあげる、という作者・世阿弥の優しさです。
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