「テレビを通して感動を伝えたい」フジテレビの元プロデューサーが語る、フィギュアスケート中継を始めたきっかけ
文=松原孝臣 撮影=積紫乃 ■ かかわりは1997年 21世紀に入り、フィギュアスケートの認知度や関心は飛躍的に高まった。その要因には、むろん多くの選手の活躍があるが、それに伴い、伝えるメディアの質量の広がりも見逃せないだろう。 【写真】1992年2月、アルベールビルオリンピックで銀メダルを獲得した伊藤みどり その1つにフジテレビがある。全日本選手権、世界選手権の地上波放送をはじめ、今日では有料放送や配信も含めさまざまなコンテンツを提供している。 同局で大会の放送やさまざまな特別番組を担ってきたのが、番組のプロデューサーを担当した近藤憲彦だ。グループ会社である株式会社フジ・メディア・テクノロジーに籍を置く現在もフィギュアスケートに携わる。 フィギュアスケートとのかかわりは、1997年、「国際オープンフィギュアスケート選手権大会」を放送したことに始まる。 「年末年始、各局はサッカーやラグビーなどの高校や大学の選手権大会、あるいは箱根駅伝などいろいろなスポーツイベントを放送していました。フジテレビの場合、現在は『春高バレー』は1月ですが、当時は3月に開催されていたので『お正月のスポーツイベントは何かないか』とスポーツ局内で調べていたところ、行き着いたのがフィギュアスケートでした。1998年に長野オリンピック開催が決まっていたこともひとつの理由でした」 そのプロデューサーの任に当たった近藤とフィギュアスケートのかかわりも、オリンピックが関係している。 「僕は1986年フジテレビに入社、最初の配属先が事業局その後営業局という番組制作ではない部署に6年ほどいました。学生時代はラグビー部に所属していたこともあり、テレビを通してスポーツの感動を伝えたいという思いが叶って、7年目で念願のスポーツ局に移りました。最初はゴルフや陸上、サッカー番組を担当、その後は長野でのオリンピック開催を受けて、その前大会となる1994年のリレハンメルオリンピックの取材で現地に行くことになりました」 そのとき、フジテレビのリポーターを務めていたのが伊藤みどりだった。 「約2週間にわたり現地で取材活動をしました」 そこで伊藤みどり、フィギュアスケートとの接点を持ち、長野オリンピックのプロデューサーも担当することになっていたことから、国際オープンフィギュアを担当することとなった。プロとアマが競い合う初めての試みとなる国際大会であった。 1997年を皮切りに、1999、2000、2001年と計4回行って休止する。 「大会には協賛スポンサーもついてくれていましたが、視聴率的には芳しくはありませんでした」 成功と言うまでに至らなかったものの、それでフィギュアスケートとの縁が途切れることはなかった。世界選手権、全日本選手権を放送していたTBSが放送権を手放すことになったのがきっかけとなった。TBS最後の放送となった2003年3月の世界選手権ののち放送権を得たのがフジテレビだった。