「ブラントンさんに挨拶しなきゃ」江戸時代から船の安全を守ってきた御前崎灯台はサーファーも訪れる名所
灯台と戦
「御前崎には、この灯台が建つ以前から、灯明堂というのがあったんです」 御前埼灯台を守る会の齋藤さんの案内で、灯台の外へ出た私たちは、灯台の広場近くにある小さな建物を見た。 それは、見尾火燈明堂という。 「古くからこの地に住む人々は、船の航行の安全の為に、夜通しここに火を焚いていたそうです」 建物は、高さ2.8mで3.6m四方。小さな茶室ほどの小屋である。しかも、外から灯りが見えるように、油障子で囲まれているだけで、壁はない。 「これ、冬はかなり寒いのでは……」 夏はいいかもしれない。しかし、取材に訪れた一月には、日差しがあれば暖かいが、かなり強い風が吹きつける。しかも、夜になれば冷え込むことは間違いない。 「風が強くて、建物が飛ばされないように、下に重しの石が積んであるんです」 と、建物の下も覗けるようになっている。 しかし、建物が飛ぶレベルの風が吹きつけたら、さすがに火も消えそうだが…… 「そのために、村人が二人ずつ、毎夜、風よけをしつつ、火が消えたらつけ、寝ずの番をしていたそうです」 「この吹き曝しで一晩中……って」 映画『喜びも悲しみも幾歳月』で描かれる灯台守よりも、遥かに過酷な役目である。 「それでも、ここで火を灯すことが、この土地の衆にとっては誇りでもあったと思いますよ」
「灯台はいわば、最前線なのですね」
見尾火燈明堂は、寛永十二年(1635)三代将軍家光の時代に作られたのだという。幕府からは灯油や障子紙なども支給されており、この燈明堂で火を灯すことは、この地の人々に代々受け継がれてきた役目でもあった。 そして、小説家の新田次郎は、短編「灯明堂物語」で、この見尾火燈明堂について描いている。 物語の舞台は幕末。 江戸幕府は、薩摩の船がこの海域を航行する際に、灯明堂の火を消し、別の場所に灯りを灯せと命じる。遠州灘を行く薩摩の船を座礁させるのが目的だった。しかし、船の安全を守ることを誇りにしてきたこの土地の人々にとってそれは受け入れがたい。葛藤の末、仮の灯明堂も作るが、二人の若者は、見尾火灯明堂にも火を灯し…… と、いった話である。 正にこの灯明堂の灯りが戦の……ひいては国の命運をも左右する可能性もあったのだろう。 そして、灯明堂は明治に入って「灯台」へと変わった。 そして近代になってからもこの灯台と「戦」は関わることになる。 「こちらの資料館の方も御覧下さい」 案内されたのは、灯台守の官舎であった建物を改装した資料館である。 そこには、御前埼灯台の歴史や特徴について展示されているのだが、そこにあった一枚の写真は、正に「満身創痍」の御前埼灯台の姿である。 「戦時中、敵機の攻撃で破壊されたんです」 太平洋戦争の最中、この御前埼灯台は本来の役目ではなく、海軍の防空監視塔が架設されることになった。海の向こうからやって来る敵機をいち早く見つけることが出来る、静岡最南端の高台という立地だからだ。 昭和二十年の七月二十四日。米軍のB29爆撃機や艦載機は御前崎上空から日本の本土に侵入。そして同時に、御前埼灯台は機銃掃射を受けることとなる。それから二十八日までの四日間、太平洋からこの御前崎を通って、敵機は再々にわたり来襲。 灯台はレンズ、灯器、回転機械など悉く破損。かつて「白亜の灯台」と称されたブラントンの手による近代的灯台は、その本体も蜂の巣状態になるまで銃弾を浴びた。 「灯台はいわば、最前線なのですね」 日本は島国であるからこそ、海によって国土を守られているとも考えられる。しかし、異国船来襲の頃から、その考えも変わって行った。 江戸時代の学者、林子平が書いた『海国兵談』には、こんな一節がある。 「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀まで境なしの水路なり」 海には境など何もないのだ。 蜂の巣のように銃弾の痕を残し、灯室が壊れかけた灯台の写真を見ながら、改めてそのことに思い至る。