「できる子だけでも野球を」松井秀喜の恩師と歩む被災地・門前高
1月下旬。金沢市民球場の室内練習場に、若者の朗々とした声が響いていた。 元日の能登半島地震で被災した県立門前高(石川県輪島市)の14人の球児たちだ。部員約40人のうち、集まれる選手だけで行われた「自主練習」。野球ができる喜びをかみしめている笑顔、声。そばには星稜高(金沢市)の元野球部監督で、門前高野球部の指導アドバイザーを務める山下智茂さん(78)がいた。 【写真特集】センバツ出場の知らせを受け喜ぶ選手たち 激しい揺れで家が壊れ、津波の被害を受け、避難所で過ごしたこの1カ月。仲間と会えない日が続き、練習も満足にできなかった。そんな球児たちが名将とともに、少しずつ歩みを進めていた。 ◇「いつも通っていた道路が隆起」 「テレビを見ていると、気持ちがめいってくるんです。サザエやアワビを取っていた海岸が地震の影響で全部砂浜になっていたり、いつも通っていた道路が隆起していたりねえ……」 山下さんは輪島市門前町黒島町出身。門前高から駒沢大に進み、その後は星稜の野球部監督を長年務めた。夏の甲子園は準優勝1回、4強2回で、1979年大会の3回戦では箕島(和歌山)と延長十八回の名勝負を繰り広げた。松井秀喜さん(元巨人、ヤンキースなど)の恩師でもある。 2005年の退任後は、日本高校野球連盟の「甲子園塾」塾長として、指導者育成に尽力した。22年から母校の野球指導アドバイザーに就任。寮で高校生たちと一緒に暮らし、ノックバットを振る毎日だった。 山下さんは野球部を「町おこし軍団」と銘打ち、除雪作業を手伝ったり、高齢者の重い荷物を持ったりするなど、地域から愛される部になる活動を選手とともに続けた。 21年度は門前高全体でも80人の定員を大きく割る11人しか新入生がいなかったが、名将を慕い、23年度は野球部の新入部員だけで25人を数えた。地道な活動で学校、そして過疎の街が活気づき始めていた。 山下さんは昨年12月30日、門前町から妻が住む金沢市内の自宅に帰っていた。元日、星稜OBの練習を見届け、帰宅し、自宅の風呂から出てすぐだった。ガタガタと体験したことがないほどの大きな揺れを感じた。金沢市内で震度5強を記録した。 自宅の2階では往年の名選手のグラブやバット、受賞したトロフィーを展示した棚が倒れて散乱した。テレビをつけると、震源地は能登地方。次第に明らかになる故郷の甚大な被害に心を痛め、1カ月で体重は5キロ減った。 門前高は避難所となり、断水も続くため、登校再開のめどが立っていないという。つてがある部員は金沢市など各地に避難したが、避難所や能登地方に残る部員もいる。全体練習はもちろんできず、山下さんは部員全員に「頑張ろうなあ。素振り1000回やってるか?」などとメールで連絡を取った。 山下さんが各球場に使えるかどうか連絡するなどして実現した「自主練習」。エース右腕の塩士暖投手(2年)や埒(らち)光平投手(2年)ら金沢市内に避難する部員が参加した。「今できる子だけでも野球をさせてやりたかった」と山下さん。「地震や津波で家が半壊したりして、野球の練習ができる状態じゃなかったのに、スイングが速くなったなとかパワーついたなとか、みんなうまくなってるんですよ。野球ができる喜びが体からあふれているのだと思います」 ◇「能登の方々に勇気を届けてほしい」 深く心に残る出来事がある。星稜の監督だった95年、阪神大震災直後のことだ。星稜が春の選抜高校野球大会に出場した際、野球部員は神戸市内の宿舎近くで掃除をするなど、被災地のためにボランティア活動をした。 センバツでベスト8に入り、その年の夏も再び甲子園に出場した。同じ宿舎に戻ると、近隣住民らから野菜をもらうなど、熱烈な歓迎を受けた。温かい応援を受けながら、この大会で準優勝を果たした。「震災で大変なはずなのに、こちらが逆に支えてもらったんですね。涙が出ました」 応援の大切さを知る山下さんは、地域と一体になる野球部づくりを実践してきた。だから、門前高で「町おこし軍団」を結成した。 今春のセンバツに出場する古巣の星稜野球部に伝えたいことがある。「こういう中でも野球ができることに感謝して、能登の方々に勇気を届けてほしい」 そして、今の教え子たちの自主練習を優しいまなざしで見つめながら、こう続けた。「つらいことがあったのに、みんな明るいでしょう。仲間と野球をすることが楽しくて仕方ないんでしょうね。早く門前のグラウンドで、全員思い切り野球をやらせてあげたい」【大東祐紀】