朝鮮人労働者らが今も海底に 「長生炭鉱」遺骨発掘、返還を
「坑口を開けよう!」 決意と覚悟を示すシュプレヒコールが周防灘に響き渡った。 7月15日、山口県宇部市の床波海岸で、戦時中の落盤事故により水没した炭鉱の遺骨発掘調査を実現させようと呼びかける集会が開かれた。 長生炭鉱──かつてこの場所に存在した海底炭鉱である。1914年に開坑し、終戦時まで操業を続けた。最盛期には1000人を超える労働者が働き、年間15万トンの石炭を産出した(※1)。 大惨事が発生したのは42年2月3日。日米開戦から2カ月後のことだ。沖合の坑道で落盤が発生し、海水が一気に流れ込んだ。逃げ場所はない。炭鉱労働者は瞬時にして真冬の冷たい海にのみ込まれた。犠牲者は183人。そのうち136人が朝鮮人労働者だった。犠牲者全体の7割を占める。 『宇部市史』では「長生炭鉱への朝鮮人強制連行と水没事故」と小見出しが付された以下の記述を見ることができる。 〈長生炭鉱は特に坑道が浅く、危険な海底炭鉱として知られ、日本人坑夫から恐れられたため朝鮮人坑夫が投入されることになった模様であり、その当時「朝鮮炭鉱」と蔑称された〉 「朝鮮炭鉱」なる呼称こそが当時の国策産業の実相を示していよう。戦時増産体制の下、安全より生産拡大が優先された。朝鮮人労働者は単なる労働力でしかなかった。事故以前にも幾度か坑内出水が確認され、事故が予見できたにもかかわらず、炭鉱側は何の対策もとっていなかった。 終戦と同時に炭鉱は閉鎖され、坑口も埋められた。遺体は引き上げられることもなく、今も海の底で眠ったままだ。 このままでいいのか。そうした思いを抱く地元住民は91年に「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」を結成。事故現場近くに追悼碑を建立し、毎年、追悼集会を開くと同時に、政府に対して遺骨収集を求めてきた。植民地主義と強制労働という“国家の責任”を問うてきたのである。 だが、直接交渉を重ねても国は動かない。海底坑道の調査も進めない。まったく何もしていないにもかかわらず、国は「技術的に(遺骨収集は)難しい」「実態が不明」との理由で、遺骨を海底に放置したままなのだ。