奥山由之が「silent」脚本家・生方美久に送った一通のDM。出会いから『アット・ザ・ベンチ』に込めた想いまでを語る
映画『アット・ザ・ベンチ』(公開中)は気鋭の写真家にして映像作家でもある奥山由之の監督デビュー作である。4人の脚本家による5本のオムニバスストーリー仕立てで、舞台はすべて同じ、広場にぽつんとたたずむベンチである。そこで各話、異なった登場人物が思い思いに語らいながら、それぞれの人生に思いを馳せていく。 【写真を見る】自然すぎる広瀬すずと仲野太賀の演技に注目してほしい『アット・ザ・ベンチ』 第1編と第5編はテレビドラマ「silent」や「海のはじまり」などで注目される生方美久が担当。久しぶりに再会した幼なじみ (広瀬すず、仲野太賀)の交わすもどかしい会話は、これまで見たことのない広瀬と仲野の魅力を引きだした。第2編は、チケットがとれないほどの人気ユニット「ダウ90000」の蓮見翔による恋人たち(岸井ゆきの、岡山天音)の別れ話。そこに中年男性(荒川良々)が割り込んできてかき回す。第3編は、過激な作風が唯一無二の劇作家・根本宗子の脚本で、姉妹(今田美桜、森七菜)が口論を繰り広げる。その破壊力は凄まじい。第4編は、奥山本人が脚本を手掛けている。ベンチの撤去を計画する役所の職員たち(草彅剛、吉岡里帆)のやりとりは思いもかけない方向にドライブしていく。 各話の登場人物が出会うことはないながら、ベンチの存在によって、うっすらとつながって見える。奥山監督が「異なる位相をシームレスに行き交う感覚が好き」と言うように、5つの物語には境界があるようなないような、得も言われぬ感覚をもたらしてくれる。 自主制作として自由に作ったという『アット・ザ・ベンチ』の最初と最後を担当した生方について奥山は「生方さんの書く物語には登場人物への愛おしい眼差しを感じる」と評した。まさにこの映画はベンチとそこに集う人たちがすべて、とても愛おしく見えてくる。 なぜ、こんなにも温かい作品が作れたのか。奥山と生方が、2人の出会いからこの映画誕生の経緯、そして、2人が映画や写真を撮ったり文章を書いたりする理由などを、初めて出会った奥山のアトリエで語らった。 ■「好きだった景色や愛着のある場所の記憶が知らず知らずのうちに塗り替えられてしまう」(奥山) ――映画の第1編と第5編を生方さん、第3、4、5編は別の方が脚本を書いています。 生方「試写を見たあと、奥山さんに、『真ん中の3作が個性!個性個性!みたいな内容で、前後の私だけまじめなドラマを書いていますね』ってお伝えしました(笑)。そこに若干の気恥ずかしさもありましたが、単に複数の脚本家が参加しているというだけではなくて、それぞれ主戦場が違う作家たち――コント畑のダウ90000の蓮見翔さんと演劇畑の根本宗子さんとテレビドラマ畑の私、それぞれの強みのようなものが出ていておもしろいと思いました」 ――こういう構成の企画はどのように生まれたのでしょうか。 奥山「まず、映画に出てくるベンチは実在するものなんです。あのベンチの近くで僕は幼少期から暮らしていました。哀愁感漂うその佇まいに気付いたら愛着を抱くようになっていたのですが、2年ほど前、周辺で大きな橋の工事が始まって…。東京は部分的な変化が断続的に続く街なので、好きだった景色や愛着のある場所の記憶が知らず知らずのうちに塗り替えられてしまうことがよくあるなあと改めて気付かされました。なので、変わり続ける景色のなかで変わらずそこにいるベンチを、いま作品として残しておかないと後悔しそうだなと思い、企画書を書いて、参加していただきたい方々に順番に連絡をしました」 生方「2年くらい前の冬、奥山さんから私のインスタ宛にDMが来たんです。私はもともと奥山さんをフォローしていて。まったく面識はなかったのですが、弟さん(奥山大史監督)の『僕はイエス様が嫌い』も好きだったし、奥山(由之)さんは、私の好きなアーティストさんのPVをよく撮られているし、気になる写真のクレジットを見るとたいてい奥山さんの名前が入っているということもあり。いちファンとして勝手にフォローしていたら、フォローバックされて、あ、知られてるんだ?くらいに思っていたんです(笑)。そしたらDMが来て、企画書と私に脚本を書いてほしい理由が書いてありました。当時、まだ『silent』が終わったばかりのころで、世に出ている私の作品といえば『silent』とその前の単発ドラマ『踊り場にて』)しかない状態だったのですが、その2作ともに丁寧な感想が書いてあって…」 奥山「生方さんの作品からは、登場人物たちや情景、ひいては物語全体に対する“愛おしい眼差し”を感じたんです。いつの間にか各登場人物を愛おしく思っている自分がいる。人間って多面的で、矛盾をはらんでいる生き物ですが、そういった矛盾から目を逸らすことなく、しっかりと引き受けている。だからこそ、いち視聴者としては自分自身と登場人物のつながり合う部分を発見できる。『踊り場にて』を観た時には、日本語という言語に対して独自の視点を持っていて、台詞からもユーモアが感じられて、この人がややコメディタッチな会話劇を書くとどうなるかなという興味が湧きました」 生方「感想を書いてくださったお手紙みたいなほうに、いまおっしゃってくださったようなコメディタッチの会話劇が書けるんじゃないかと書いてありました」 奥山「書けるんじゃないか、って自分そんな偉そうなお手紙を送っていたんですね (笑)」 生方「ふふ(笑)。書き方は柔らかかったけれど、ようするに『書けると思うよ』みたいなことでしたよ(笑)。もともとワンシチュエーションコメディは好きなので、いいお話をいただいたと思いました。時期的に『silent』の直後だったので、大作のラブストーリーや余命ものの依頼が多く来ていて、もちろんそれもありがたい反面、いま、脚本家として走りだしたばかりのタイミングで、ジャンルが固定化されることはちょっとこわいなと思っていたし、なによりいろいろなジャンルのものを書きたくて。『踊り場にて』はシナリオコンクール(第33回フジテレビヤングシナリオ大賞)の応募作で、ゼロから書きたいことを書いたものに共鳴してもらえたことは大きかったです。だからほんとに即決という感じでした。真冬のある日、ここ(奥山さんのアトリエ)で初めてお目にかかって。それからベンチを見に行きましたね」 奥山「そうでした。真冬にベンチを見にいって、そこで構想をお話しました」 ■「各編、全部、撮り方が違いますよね。画だけ見ていてもおもしろいです」(生方) ――広瀬すずさんと仲野太賀さん演じる2人の会話が終始ユーモラスなのだけれど、笑わせに行くという積極的なものというよりは、他愛ないものをくすくす笑う感じで、そこに幼なじみならではの関係性が出ているようでとても心地良かったです。セリフがあまりに自然なのですが、すべて台本通りなのでしょうか。 生方「ほぼほぼ。あ、でも、広瀬さんがビニール袋を落としちゃうのは台本に書いてなくて。ほんとに落としちゃったみたいで、『落としちゃった』と言いながら拾うのがかわいくていいなあと思って映画を観ました」 奥山「せっかくワンシチュエーションなので、一つの物語を最初から最後まで通して演じてもらうことで、その場でしか起こり得ないある種の即興性や偶発性を取り入れたかったんです。15分間を台詞通りに完璧に演じきるのも良いのですが、役者さんたち自身の持っている魅力や癖みたいなものが、役柄に混ざり合って、虚と実の間を行ったり来たりするといいなと思っていました」 生方「各編、全部、撮り方が違いますよね。第1編は背中から、第2編は正面から登場人物を撮っていて、第3編は姉妹の動きを追ったすごく躍動感があるもので、第4編もまた全然違う。画だけ見ていてもおもしろいですよね」 奥山「第1編と第5編は、俳優の目線にカメラをはじめとする撮影用の機材や、スタッフが入らないようにしたんです。ふつうは、俳優にはカメラなどが見えていて、登場人物の目に映る風景とは異なるものですが、今回は、俳優と登場人物の目に映る世界を重ね合わせて同じにしてみたかった。それで、カメラをほぼずっと、広瀬さんと仲野さんの背後に置きました。ベンチに人が座った時、後ろから捉えるほうが背もたれの曲線なども含めてフォルムが綺麗に見えるし、観客もベンチ自体が主軸の作品であることを意識できる。とくに生方さんに書いていただいた話は作品全体の始まりと終わりでもあるし、ベンチを一つの登場人物として捉えてもらえるといいなと思ったんです」 生方「脚本を書く時から、バックショットメインでとは言われていました」 奥山「2人の表情があまりはっきり見えないほうが、たまたま見かけた人たちの会話をそっと見つめているような感覚になって、より愛おしく感じられるのではないかなと。以前読んだ生方さんのインタビューの中で、映画やドラマなどでは、登場人物が何かしらの明確な成長をして、まるで頑張って生きていこうと励まされるような物語が多いけれど、自分の場合は、その人物がいままでどうやって生きてきたのかを知れるだけで充分で、頑張ってじゃなくて、頑張ってきたね、と認めてくれるような物語が書きたい、というお話をされていたのがとても印象に残っていて。背中をぐっと押すのではなくて、背中に手を添えるみたいな感覚で登場人物に寄り添っているのだと思います。だからこそ今回、第1編と第5編は背後から見守るようなショットを中心とした撮り方になりました」 ――バックショットのほかは、お互いがお互いの横から見る横顔に近いものに新鮮さや生々しさがありました。 生方「ポスターに使われている写真もそうですけれど、商業作品、特に邦画では、主要キャストの顔を大きく載せるという暗黙の決まりのようなものがありますよね(笑)。ああいうことをしなくていい作品はなかなかない。しかも広瀬すずさん、仲野太賀さんが出てくる作品にもかかわらず、本編で2人の顔を正面からはっきり映さないことはなかなかできないことなので、今回、すごくいい体験ができたなと思っています」 ――生方さんのドラマは、風景やアングルなど画が物語る部分も多いように感じますが、脚本を書く時、画が浮かんでいるのですか。 生方「普段、ドラマの脚本を書く時に、自分のなかのカット割りはあるんですよ。もともと映画監督になりたかったこともあって。引きやアップなどのイメージを浮かべながら書いています。でも別にそれ通りに撮ってほしいわけではなく、イメージがあるほうが書きやすいというだけで。むしろ出来上がったものを見て思っていたものと違っていたほうが楽しめるというか。私だけが、2パターンの物語を楽しめるみたいな感覚です。今回、数々の優れた映画を撮っている撮影監督・今村圭佑さん(『新聞記者』『ホットギミック ガールミーツボーイ』『百花』『四月になれば彼女は』などを手掛ける)に自分が書いたものを撮ってもらえたこともすごくうれしかったです」 ■「自己責任で作っているからこそ、第4編目のような大胆なことができた」(奥山) ――第4編では奥山監督自身が脚本も書いていて、しかもとても異色です。まず色味が違いますし、ほかの4作は日常の会話劇ですが、4編だけはSFのようなシュールな展開です。 生方「あらかじめ脚本を読ませてもらった時、あれが映像になるのが一番楽しみでした。実際観た時、すでに内容は知っているにもかかわらず、なにが始まったのか、と思いました(笑)」 ――第4編は自分で書いて撮ろうと思っていたのでしょうか。 奥山「せっかく個人的な想いから始まった企画ですし、どこか1編は自分で書こうと思っていました。以前から位相やレイヤーが目まぐるしく変わっていったり、現実と非現実、ドキュメントとフィクションを行き交う作品を、MVなどでも好んで作ってきたので。現実は現実、フィクションはフィクション、として描かれるよりも、それらが渾然一体となっていたほうが自分にとってはむしろリアリティを感じれるんです。思い込みや常識が途中で剥がれていくことで、世界が多面的であることを知れる。今回は自主制作で、自己責任で作っているからこそ、思いきって第4編目のような大胆なことができたと思います」 ――物語のなかで、生方さんの書いた第1編に出てくる固有名詞が出てきて、作品がリンクしています。また、第2編でも第1編とリンクする小道具が出てきます。また、第5編では第3編の内容を思わせるセリフがありました。 奥山「まず、第1編を生方さんに書いていただいて、そのあと、第2、3、4編と順番に進行して、第5編は、生方さんに第4編までの脚本を読んでもらってから執筆していただきました。自主制作だからこそ制作過程が流動的で、時間に余裕をもって進めることができたのだと思います」 ■「脳で思ったことをそのまま口に出して言語化すると、自分が伝えたいことと差異がある」(生方) ――第4編で「(人間は)感覚と言葉が分離している」というようなセリフがあります。本質的というか哲学的だなと感じました。お2人は「感覚と言葉」をどう捉えていますか。 奥山「僕は思っていること、感じていることを言葉にして伝えることがとても苦手なんです。自分の心や脳内にある感覚を言葉に変換することがうまくできなくて。だからこそ映像や写真という、抽象を具体にできる表現媒体を無意識で選んでいるのだと思うのですが。なんでこの気持ちを、たった数%もうまく伝えられないんだろうと、もどかしい日々です。でも逆に、だからこそ、人間のコミュニケーションはおもしろいなとも思ったりしていて。どれだけ言葉を尽くしても100%伝わるということはない。ということは互いを理解するためにはほとんどの場合、誤解を経ないといけない。むしろ話せば話すほど誤解が生まれてしまうことだってある。もちろん言葉を超えた心の伝達や、非言語的な共鳴はあるとしても、基本的なコミュニケーションはまずやっぱり言葉になる。そこにもどかしさを感じるけれど、それが一つの“風情”でもあり、ある種の“愛おしさ”でもある、みたいなことを思います」 生方「私もほんとに奥山さんに近くて。さっき、(このインタビュー記事用の)写真を撮りながらも、取材が苦手で、結構断ってきちゃったという話をしたのですが、しゃべることが嫌いなわけではなくて。脳で思ったことをそのまま口に出して言語化すると、すごく差異があるんですよ。言葉に変換したものと、自分が伝えたいことに差異がある。取材だと、私の発した言葉からもう一つライターさんのフィルターを通して文章にすることで、さらに差異が生まれます。…なんて、プレッシャーかけてしまうようですが(笑)。奥山さんの映像と写真のようなもので、私は自分の考えていることを文章にするとすっきりするんです。手書きでもパソコンで打つのでもどちらでもいいのですが、自分で書く。脚本以外でも、エッセイや、誰にも見せられない日記とかもあるのですが、文字なら、しゃべっている時とは違って、自分の感覚がそのまま出せます。だから、私は映画監督ではなく、書くほうに行ったのだなって。感覚と言葉のズレがあるからこそ、書くほうに」 奥山「もし数千年後、数万年後に人類が滅びて、別の生物が人類史を見返した時に、なんでこんなことで悩んだり、こんな面倒なコミュニケーションのとり方をしていたんだろうと不思議に思うだろうなあ。いとおかし、みたいな」 生方「おっしゃる通り、コミュニケーションのズレがおもしろいと思えるので、今回のお話の中にも取り込みました」 ――生方さんのセリフは、いい意味で理路整然としてなくて、言い淀んだり、同じようなことを何度も繰り返したりしますよね。 生方「映画やドラマのセリフで、理路整然と語るものの良さもあるけれど、すらすらと流暢にしゃべっているキャラクターがいると、私は違和感を覚えてしまうんです。ただ、一語一句、自分が書いたセリフ通りしゃべってほしいと思っているわけではなくて。さっき奥山さんがおっしゃった偶発的に起こることーービニール袋落としちゃったみたいな、無意識に役者さんが感じたことを自然に取り入れている『アット・ザ・ベンチ』はいい作品だなと客観的にも思います」 奥山「第2編の蓮見さん、第3編の根本さん含めて、一つのベンチを舞台に、描けるかぎり多面的な物語を描くことができました」 取材・文/木俣 冬