上原彩子、満を持してベートーヴェン・ソナタ全曲
「奇をてらうような演奏をするつもりはまったくありませんが、だからといって伝統的な概念を強く意識した演奏には絶対にならないと思います。自分の目線で弾いていって、結果的になにか新鮮なものが出てきたらいいですね」 【画像】その他の写真 2002年チャイコフスキー国際コンクールで、女性ピアニストとして、また日本人ピアニストとして初優勝。ピアノ界のトップランナーとして走り続ける上原彩子が、8年をかけてベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏に挑む。シリーズ初回は3月9日(土)、東京文化会館小ホール。 「挑む」はけっして常套句ではない。じつは彼女、「若い頃は、ベートーヴェンのソナタの良さがわからず、避けてきた」という。 「生涯にわたってピアノ・ソナタを作曲し続けたベートーヴェン。だからある意味、ここには彼の生涯のすべてが詰まっています。ただ、私の中でベートーヴェンは、きちんとテンポを守って、まっすぐ前を向いて弾く──という以外にやりようがないという感じで、弾いていて面白くなかったんです。それがだんだん親近感を持ってきたのは、協奏曲をたくさん弾かせていただくなかで指揮者の方々から多くを学ぶことができたからです。なかでもその面白さと素晴らしさをいちばん感じたのが、エリアフ・インバルさんと弾いた《皇帝》でした(2017年ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)。 それまで私は、ピアノがメインの協奏曲というスタンスで弾いてきてたのですけど、インバルさんはとてもシンフォニックにしっかりと作ってくださって。その流れを聴きながら、無理に主張することなく弾いても、それで音楽が成り立っている。そんな経験でした。しっかりとした枠組みがあるからなんですね。説明が難しいですけど、全体のテンポの安定感みたいなことでしょうか。たんなるメトロノームの速さとは違う、いろんなところで遊んでも戻っていける安心感。変化する余裕やスペース。もっと自由に泳げるんだと感じるようになって、やっとベートーヴェンが楽しくなった気がします」 「ベートーヴェン弾き」と聞いて真っ先にイメージするピアニストはアルフレート・ブレンデルだそう。 「感情に流されすぎず、構築性と感情のバランスがとてもいい。構築性は、きっとベートーヴェンでは外せない要素なのですが、それだけではまったく面白くないわけで、そこにいろいろな表情とかパッションとかがちゃんと見えないと。ブレンデルは、フレーズの作り方ひとつをとっても、何をどうやりたいのかがはっきりわかって曖昧さがない。全部、しっかりと、はっきり物を言っている感じです。 ただ私は、無理してそこに近づく必要はないかなとも思っています。もちろん、それがベートーヴェンの音楽が持っているものだと思うので、必要はあるんだけれども、だからといって無理に、自分のいろいろなものを抑えてまでそうする必要はないのではないかなと」 全32曲を作曲年代順に8回に分けて完奏する。 「ベートーヴェンは一曲一曲いろいろなことに挑戦していて、すべてのソナタに新しい試みがあります。全32曲はそのひとつひとつの試みの積み重ね。だから、たとえばいきなり《熱情》を弾くよりも、作曲順を追って、そこに至る他の作品を知ってから弾きたいと思いました」 第1回はボンからウィーンに進出したベートーヴェン20代半ばの作品が並ぶ。3曲セットで作品2として出版された第1番~第3番と、同時期に作曲されながら約10年後に作品49として出版された第19番と第20番というプログラムだ。 「若い時から自信満々なベートーヴェンを感じます。ハイドンやモーツァルトからの影響も見えるけれど、1曲目の始めからベートーヴェンのカラー。そして面白いのは、作品2の3曲が、一曲一曲まったくカラーが違うことです。その後のベートーヴェンのキャラクターの多様さが、はじめの3曲ですでに出ている。それぞれのキャラクターを楽しんでいただければと思います。 私は、以前は第1番が嫌いだったんです。彼が自分で弾いてアピールするための曲でもあるので、難しいパッセージをふんだんに使おうという気持ちが見える。それはとても効果的なんだけれども、私には弾きにくかったんですね。第2番は今回初めて弾きます。面白いですね。モーツァルトのようなやわらかい表情のなかで自分のカラーをいかに出すか。深い響きが印象的な第2楽章でベートーヴェンらしさをいかに出すか。今は第2番が一番好きです。第3番は交響曲や協奏曲につながるような大規模なものをピアノ・ソナタに取り入れようという試みを感じます」 2032年のデビュー30周年を見据えての長い旅路。 「子供たちも成長して家庭もだいぶ落ち着き、今ならまとまって何かに挑戦できる時期かなと思いました。今まで、プライオリティがピアノになかった時期もあるので、もう一度自分の目を、ピアノを弾くことにしっかりと向けたいなと思っています。まだまだ新しいこともいっぱい吸収できる年齢(笑)。自分に期待しています」 上原彩子 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲演奏会 Vol.1 3月9日(土) 14:00開演 東京文化会館 小ホール 取材・文:宮本明 撮影:千葉秀河