『光る君へ』本朝(日本)三美人といわれた藤原道綱母はどんな人?『蜻蛉日記』に書かれた兼家との結婚生活とその生涯
今回は、大河ドラマ『光る君へ』で、財前直見が演じる道綱母(ドラマでは藤原寧子)を取り上げたい。段田安則が演じる藤原兼家の妻で、上地雄輔が演じる藤原道綱の母、『蜻蛉日記』の作者でもある彼女は、どのような人物なのだろうか。なお、彼女の実名は不明なため、ここでは「道綱母」で表記する。 【写真】長谷寺の回廊 文=鷹橋 忍 ■ 本朝第一美人三人内也 道綱母の生年は明らかでないが、承平6年(936)頃とみられている(川村裕子『新版 蜻蛉日記2』下巻)。 ここでは道綱母の生年を承平6年として計算すると、延長7年(929)生まれの夫・藤原兼家より7歳年下となる。 道綱母の父親は、上総、河内、伊勢などの地方官を歴任した正四位下藤原倫寧。 母親は、通説では主殿頭春通女(とのものかみはるみちのむすめ)であったが、最近では源認女(みとむのむすめ)ともいわれている。 『更級日記』の作者・菅原孝標女(たかすえのむすめ)は姪にあたる。 南北朝時代に編纂された系譜集『尊卑分脈』には、道綱母に関して「本朝第一美人三人内也」(日本三美人の一人)」と記述されている。 ■ 和歌と装束の仕立てが得意 歴史物語『大鏡』第四巻「太政大臣兼家」に、「きはめたる和歌の上手」とあるように、歌人としても知られ、中古三十六歌仙の一人に数えられている。 また、当時、夫の衣装の作製は妻の役目だったが、道綱母は裁縫や染色など、服の仕立てに関して、優れた技術をもっていた。夫の藤原兼家は、道綱母のもとにあまり通わなくなってからも、衣装の仕立てを頼んでいる。
■ 『蜻蛉日記』は他人に読ませるために書かれた? 道綱母は、『蜻蛉日記』の作者として著名である。 『蜻蛉日記』は上中下3巻からなり、天暦8年(954)~天延2年(974)頃まで、道綱母が数えで19歳~39歳頃までの21年間の出来事が綴られている。 書名は、上巻末尾の「あるかなきかの心地するかげろふの日記といふべし(あるかないかわからない、かげろうのような、はかない日記ということになるのでしょう)」という記述に由来するという。 『蜻蛉日記』は、女流日記文学の道を開いただけでなく、紫式部の『源氏物語』にも大きな影響を与えたとされる。 当時の人々の日記は、他人に読ませることを前提に書かれているという(増田繁夫『蜻蛉日記作者 右大将道綱母 日本の作家9』)。 『蜻蛉日記』も序文で、「天下の人の、品高きやと、問はむためしにもせよかし(最上の身分の男性との結婚生活とは、いったいどのようなものなのかと尋ねられた時の、答の一例になれば)」と記されている。 紫式部や、ファーストサマーウイカが演じる清少納言、和泉式部など、他の当時の女流作家は宮仕えしていたが、道綱母は家庭にあって、作品を残しているところが、他の女流作家とは異なっていた。 ■ 兼家との結婚 『蜻蛉日記』によれば、道綱母は天暦8年(954)夏、藤原兼家に求婚され、同年秋に結婚した。道綱母が19歳のときのことである。 当時の正式な手続きを経た結婚であり、道綱母は世間的にも、兼家の妻と認知されていたという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』高松百花 「第二章 道長の<母>たち ◎実母時姫・庶母・父兼家の妻妾」)。 だが、兼家は道綱母と結婚したとき、すでに三石琴乃が演じた時姫と結婚しており、前年の天暦7年(953)に、井浦新が演じる藤原道隆が誕生していた。 当然のことながら、道綱母もその家族も、時姫や道隆の存在を知ったうえで、兼家と婚姻関係を結んでいる。 道綱母も翌天暦9年(955)8月に、藤原道綱を出産した。だが、同年の秋から冬、兼家は「町の小路の女」という女性のもとへ通うようになってしまう。 この時に道綱母が詠んだ歌は、『小倉百人一首』にも選ばれている。 嘆きつつ一人寝る夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る (嘆きながら、たった一人で寝ている夜が明けるのが、どんなに長いか、あなたにはおわかりにならないでしょうね) 町の小路の女は兼家の寵愛を失うが、兼家はその後も、次々と別の女性のもとに通い、道綱母を苦しめた。 『蜻蛉日記』には、次第に道綱母から足が遠いていく兼家に対する怒りや、嫉妬、嘆きなどが綴られている。