歌舞伎役者の初代中村萬壽が語る、三代襲名への思い「時蔵の名を汚さぬようつとめた43年。萬壽の名は平安時代の元号から。孫の初舞台と一緒に譲ることを思い立って」
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第30回は歌舞伎役者の中村萬壽さん。五代目中村時蔵として歩んだ43年を振り返るとともに、三代襲名への思いを伺った。 【写真】歌舞伎座の楽屋でコーヒーを飲む親子3人。左から長男・六代目時蔵さん、萬壽さん、次男・萬太郎さん * * * * * * * ◆とにかく深い教え方 第2の転機は、大成駒(六代目中村歌右衛門)との出会いではないだろうか。何かのお祝いの席で、お家にはご養子の女形さんもおいでなのに、時蔵さんに『手習子』を踊るよう、指名なさったと聞く。 ――そうなんですよ(笑)。そこへ話が繋がるわけなんだけど、まず私が38の時に、国立劇場小劇場で『鏡山旧錦絵』をやることになって、私に中老尾上の役が来ました。国立側が歌右衛門のおじさんに監修を願い出たら、「私は監修はいやだよ」とおっしゃった。 でも私はどうしても尾上の役はおじさんに習いたいと思って、(世田谷区)岡本町のお宅へ伺って「初役なのでどうか教えてください」ってお願いしたら、じっと考えて「あんただけ見てもねぇ。じゃあもう、みんな見てあげるよ」って、結局、監修をお引き受けになった。今の(中村)雀右衛門が召使お初で、今の又五郎が局岩藤でした。 その昔、私が八重垣姫や時姫を教わった時は身体の使い方とかかなり初歩的なことだったんですが、この時はもっと芝居面でのダメ出しで、難しかった。しかし言われた通り、よく考えて一所懸命やりました。 そしたら急にある時、「お前さん、麻雀できるのかい?」って言われて(笑)。それからはよくお宅へ呼ばれ、ご飯を一緒に食べたりなんかして、すごく親しくさせていただくようになりました。
それから『手習子』の話ね。『鏡山』を教わってから2、3年後に、おじさんが高松宮殿下記念世界文化賞に、日本人の芸能人として初めて選ばれたんです。そしたら「あんたちょっと話があるんだけど」と。「まだ内緒だよ、寝物語に女房にも言っちゃダメだよ」って言われてね(笑)。 「受賞パーティーで何か歌舞伎をお見せしたいから、あんた『手習子』踊っておくれよ」とおっしゃる。いえいえ、ご子息の梅玉兄さんも魁春さんもいらっしゃるのに、って何度もご辞退したんですが、聞き入れてくださらない。 真夏の暑いさなかにお宅に伺うと、いつも麻雀をやるお部屋のソファーがどかしてあって、「じゃあやってごらん」って言われました。成駒屋のおじさんはクーラーがお嫌いで、扇風機もダメなんですよ。 汗だくになって踊って、では小道具も一応見てください、って出したら、「じゃあそれ持ってもう一回おやり」(笑)。傘さして踊ったら、天井のシャンデリアにガチャンとぶつけたりしてね。 「これは子供の踊りなんだから。袂が重いんだよ、うまく踊らなくていいから、よちよち踊るんだよ」って。 とにかくおじさんの教え方は深くて。たとえば『鳴神(なるかみ)』の雲の絶間姫では、滝に掛けられた注連縄(しめなわ)を姫が懐剣で切ると、そこに封じこめられていた竜が出てきます。 それをじっと見上げて、竜が去ったのを見届けてから逃げ去ろうとしたら、「何見てんだい? まさか竜見てんじゃないだろうね」と言われて。 「あれは鳴神上人にしか見えないものなんだよ。注連縄切ったらすぐ大雨になるから、懐剣しまってそのまま逃げるんだよ」って。私たちにはちょっと思いつかないことです。 ですから私が『鏡山』の尾上でおじさんに何となく認められたことが、第2の転機と言えるでしょうね。
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