家族に「再会」 沖縄戦遺族ら、平和の礎に
沖縄戦から71年目の「慰霊の日」。犠牲者の名前が刻まれた沖縄県糸満市摩文仁の「平和の礎(いしじ)」には朝早くから多くの遺族らが集まり、礎に向かって手を合わせた。
「見守ってください」
那覇市から訪れた儀間敏子さん(72)は沖縄戦当時1歳。「母におぶられ、防空壕を転々としたと聞かされたが、自分の記憶はない」 立ち止まった先には、兄善吉(ぜんきち)さんの名前があった。親戚の話では、優しく、人当たりがよく、人望のある人柄だったという。当時高校3年生の17歳。教員を目指していたが、沖縄戦に動員されて命を落とし、夢は断たれた。 死亡した日時や場所も不明。「(沖縄本島)南部でないかと言われてはいるが…」。遺骨はない。 生前の兄に可愛がられたという姉とともに毎年「平和の礎」へ来ていたが、その姉も昨年82歳で死去。「姉の分も、年に1回はここへ会いに来ないと。家族の近況報告をして『兄弟を見守ってください』と言わないと」
儀間さんは持ち寄ったお菓子や果物、さんぴん茶を礎の前に並べ、横に花束を手向けた。「姉ならもっとちゃんとした料理を作ったんだけどね」。時折涙をぬぐいながらも一言一言しっかりと語った。
「子どもを思う祖父だった」
幼い娘を左手で抱きかかえ、礎と向き合う若い男性がいた。沖縄市在住の吉元真秀さん(40)。父方の祖父をはじめ、叔父や叔母ら複数の親族を沖縄戦で亡くしたという。
祖父は当時サトウキビの運搬の仕事をしており、その繋がりで弾薬の運搬役として沖縄戦に動員されたという。戦いが激しくなる直前、その祖父が現在のうるま市にある実家に戻ったことがあった。当時家にいた伯母らは「(戦いに)戻ったら死ぬ」と引き止めたが、祖父は「ここで逃げたら、戦後に逃げた人の子と言われて家族が辛い目に遭う」、と戦地に向かい、帰らぬ人となった。
今と当時とでは時代背景は違う。しかし、「子どものことを大事にした祖父がいたということを伝えたい」と小学1年の娘を連れてきたという。 (撮影:山本宏樹/deltaphoto)