“覆面を外した”アーティスティック・ディレクター、デムナ。バレンシアガ新章の舞台裏を語る
バレンシアガを手がけるデムナが今、インスピレーションの源として探求しているもの、それは幸福感だ。『GQ』のシニア・ファッション・ライター、サミュエル・ハインが、デムナの新時代の夜明けを、パリ、ニューヨーク、そして上海で目に焼き付けてきた。 【写真をみる】上海のショーで「なりゆきに任せる重要さをもう一度学びました」とデムナは語った。
◾️パリ 早春のパリ。謎に包まれたバレンシアガのアーティスティック・ディレクター、デムナは椅子から立ち上がった。彼は明るいショールームにいて、猫背気味のマレットヘアのモデルをじっと見つめている。バレンシアガの2024年ウィンターコレクションが2日後に迫るなか、デムナは何時間もルックの最終調整を行っていた。 17世紀に建てられた、以前は病院だった建物のアーチ型天井の下に広がるこのショールームには、耳をつんざくような音量でテクノ・ミュージックが鳴り響いていて、まるで大人のパジャマパーティーのようだ。デムナに倣い、部屋にいるほぼ全員がバレンシアガのパジャマスウェットを着ていた。 今回のコレクションは、デムナにとってごくパーソナルなもので、自身のクローゼットから取り出してきたかのようなものや、ソビエト時代のグルジア(現在のジョージア)で思いがけず始まり現在に至る、ファッションデザイナーとしての軌跡を思わせるものが詰まっているという。スキンヘッドのこめかみに指を当てているデムナは、核分裂の機密事項について考えているかのようだ。モデルの体型には大き過ぎるジップアップセーターとジーンズは、それほど大それたデザインではないが、デムナがここまで集中して入念に確認しているのもわかる。バレンシアガが望ましくない理由で話題になり続けていたこともあり、デムナはいったんここでなんとかしたいと考えていた。過去10年間に彼がどれほどファッションを推し進めてきたかを、ショーの観客にもう一度思い起こさせ、バレンシアガというブランドの回復を決定づけるためだ。 多くのクリエイターがそうであるように、デムナもまた、状況を制御できている感覚に安心する。それは、彼の外見にも及ぶようだ。デムナはバランスにこだわり抜いた黒い服で身を隠す傾向があり、覆面やフューチャリスティックな色付きのフェイスシールドを着けて、写真に顔が映らないようにしていた時期も何年かあった。今日のショールームでの彼は、謎めいた男というより、ビッグサイズのTシャツから手首まで続く青いタトゥーをのぞかせた、ブルジョワのヘビーメタル・ベーシストといった風情だ。淡いブラウンの瞳と同じ色の髭は若干長めに整えられていて、完璧にマニキュアが塗られた爪には、欠けたような黒いラッカーが施されている。 デムナは、6人いるアシスタントのうち一番近くにいた者のほうに振り向き、シンプルな黒いビーニーを受け取った。デムナはそれを若い男性モデルの茶色のカーリーヘアの上にかぶせ、目が隠れて鼻先だけが見えるくらいまで思い切り引き下げると、そのままウォーキングするよう指示した。デムナの作品には、斬新なプロポーションと究極のサヴォアフェールによって、機能性を重視した着やすい洋服をフェティッシュなファッションアイテムへと昇華させているものが多いが、このビーニーも例外ではない。ぱっと見ただけではよくわからないところがある。デムナは私の当惑した表情から察したのか、一見シンプルな帽子に隠されたトリックを明かしてくれた。「ニットが2枚重ねになっていて、肌に当たるほうが目の形に切り抜かれているので、前が見えるのです」 辛辣なリアリズムと精鋭なオートクチュールをぶつけ合わせたデムナの作品(ネックラインや袖の形にこだわったフーディなど)は、嘲笑したいのか挑発したいのか、批評なのか真摯な提案なのか、その境界線が必ずしも明確でないこともあり、激しい議論を引き起こす。ショールームで私が、例のビーニーに込められた意味について詳しく聞かせてほしいと言うと、デムナは誠実に答えてくれた。「参考にしたのは、クチュールで使われるボイルという薄い布地です。顔を覆うベールに使われるものですね。また10代の頃、目が隠れるくらいビーニーを深くかぶっていたのを思い出します。ほとんど前が見えていないので、こんなふうにしか歩けません」。そう言うとデムナは頭を後ろに傾けて笑った。わかるような気がした。その後彼は、「デムナは時代を代表するファッションの天才か、それとも煽り屋に過ぎないのか」という広く交わされている議論を、うるさいノイズだと言って切り捨てた。「人は何にでも挑発されますからね」と彼は言う。 数日後、私は、バレンシアガの歴史あるジョルジュ・サンク通りのアドレスでデムナに会った。パリのファッションウィークも終わりに近づいていて、移り変わる雲の下でパリの街全体が一息ついているようだった。デムナに案内されて最上階のミーティングルームに行くと、そこにはクリストバル・バレンシアガの大きな白黒の肖像画が飾られていた。スペイン出身のクチュリエ、バレンシアガは、1937年にこの建物のドアを開け、パリにおいて主要なドレスメーカーとしての地位を確立した。 いつもはメディア嫌いのデムナが、このときは話したがっているのがわかった。彼が寛大になっているのには理由がある。しばしばデムナを困らせるファッション評論家たちは、今回のショーをすこぶる称賛していた。 黒革の大きなソファに腰を下ろし、磁器のカップで紅茶をすすりながら、デムナは自分なりの見解を語ってくれた。「先日のショーは、初めて幸せなショーになったと思います」 デムナの人生は心温まる出来事ばかりではなかった。1981年、当時はグルジア・ソビエト社会主義共和国の一部だった、黒海に臨む都市スフミで生まれた。幼少期の良い思い出は洋服にまつわるものだ。母親が弟を出産して少し入院しているあいだ、整備士の父親がガレージに行ってしまうと、デムナは両親のクローゼットに忍び込み、自分だけのミニ・ファッションショーを開いていた。小さい頃からすでに、「服で変身できることに魅了されていた」という。祖母には巻き尺をねだった。「すごく美しいと思ったのです」と彼は打ち明ける。両親はデムナの好きにさせていたそうだが、それもそう長くは続かなかった。叔母のプリーツスカートをはいているのを見つけた父親が、もうそこまでだ、と一線を引いたのだ。 寂しさを覚えたのも束の間だった。デムナがまだ子どもだった1992年、アブハジアの分離主義者たちがスフミを攻撃し、彼が住んでいた家は爆撃を受けた。翌年、暴力がさらに激化するなか、一家はコーカサス山脈を歩いて逃れ、最終的に数百キロ離れたトビリシにたどり着いた。すでに家族のなかで厄介者扱いされていたデムナは、そうして難民になった。戦争と激動に傷つきながらも、永久のアウトサイダーとなったデムナは、自分の居場所を求めて戦う決意を固めた。 10代の頃のデムナは「とても信仰深くて、マッチョ」な国で、いじめられっ子のゲイの若者という、より典型的なのけ者だった。トビリシの大学で国際経済学の学位を取得したあと、2003年、アントワープ王立芸術アカデミーの有名なファッションデザイン学科に出願した。「とにかくやってみよう、という感じでした。今やらなかったら一生やらないだろうし、結局ドイツのつまらない銀行で働くことになる。そうなれば、この先の人生はずっと不幸になるだろうと思ったのです」 卒業後、デムナはパリに向かった。「コネもネットワークもなく、ファッション関連のパーティにも行かないグルジア人の変なやつ」だったと当時を振り返る。デムナにあったのは、半分壊れたようなミシンと、10平米のスタジオだけ。2009年にメゾン マルジェラで、2013年にルイ・ヴィトンでデザイナーの仕事をしているとき以外は、そこで洋服を縫っていた。デムナのデザインは、見た目はアグレッシブな服でも着心地がいいことを強調するようになり、それはまるで、繊細だが、いつでもケンカする準備ができている彼自身の心を映し出しているかのようだった。手の甲に毛が生えていることを恥じていたデムナは、コートやジャケットの袖を長くし、Tシャツは手が隠れるように仕立てた。「私の美的感覚は、極めてパーソナルなものです」と彼は言う。 こうした自分を守ろうとする傾向は、デムナの服に対する革新的な姿勢の基盤となり、それから、ファッションの神聖なる真理を文化的に広く再考するようになった。「私はただ『今この瞬間』にすごく興奮するのです。いつもね」と、あるときデムナは私に言った。「ファッションというのは次に何が流行するかを予測するものだと言われることが多いですが、それは違います。ファッションは今このときを表現するものでなければなりません。今と結び付けられなければ、ただの装飾になってしまいますから」。デムナに言わせれば、派手な装飾が施された服や「夢」を売るデザイナーは詐欺まがいだという。「今のファッション界では、個人的な視点というのは非常に稀有だと思います」と彼は言う。 デムナの誠実さは、商業的な大ヒットにつながった。彼がバレンシアガのデザイナーに着任した当時、売り上げは3億5000万ドル程度だったが、2022年までに売り上げは約20億ドルに急増。バレンシアガのCEOセドリック・シャルビは、「バレンシアガのデムナというのが、ここ数年のファッション界のアジェンダになったように思います。デムナは、するべき会話を前進させる能力に長けている。ものごとを360度から見て再考します。……それに、ほかの誰よりも我々の時代を捉えている。デムナは文化的な現象ですよ」 パリでの午後、デムナは少しずつ自らのことを明かしていった。そこで垣間見られたのは、繊細さであり、閃光のような憤りであり、そして残酷なほどの正直さだった。私が会ったデムナは、深刻な方向転換の真っただ中にいた。「昨年一年は、クリエイティブ面における自己療法のつもりで過ごしました。バレンシアガにとって必要なことだとわかっていたし、自分にとっても必要なことでした」 幸せとは、愛と同じように謎に包まれている。自己啓発本や瞑想アプリを駆使しても、私たちがいつどうやって幸せを見つけられるのかは予測できない。ロサンゼルスの高速道路で渋滞に巻き込まれている最中に、天から稲妻のように幸せが降ってきて、乗っている車を直撃するかなんて、私にはわからない。だがデムナには、まさにそのとおりのことが起きた。 「何が起きたのかよくわからない瞬間でした」。デムナは、奇妙で予期せぬことだらけの人生のなかでも、おそらく最も奇妙で予期せぬ事態に見舞われたことを照れくさそうに振り返った。 それは12月のことで、デムナは2023年最後のショーを行うためにロサンゼルスを訪れていた。デムナはLAが大好きだ。ほとんどの時間をパリとスイスの田舎にある自宅を行き来して過ごしているが、LAは世界で一番好きな街だという。LAには「私たちの知らない可能性がある」と彼は言う。デムナがLAに降り立つと、バレンシアガはハリウッドのインフルエンサーたちに人気の高級オーガニック食品店、EREWHONとのコラボレーションを発表した。 ある晩、デムナと彼の夫であるフランス人のテクノミュージシャン、BFRNDは高速道路の渋滞にはまっていた。デムナはLAのコレクションに、大きな手ごたえを感じていた。それは、以前からインスピレーションを受けていた、オフの日にセレブたちが着るエレガントなレジャーウェアに、パンチの効いたオマージュを贈ろうとして作ったものだ。彼はハリウッドサインが背後にそびえるハンコック・パークの通りでショーを開催することに興奮していた。それに、ついにEREWHONに行けたことにも喜んでいた。空には燃えるような夕焼けが広がっていた。「そのときふと気づいたのです……」。そう言うとデムナは少し間を置いた。「ああ、幸せだって」。ふたりは車の中から夕日の写真を撮ったという。 「言うなれば、家に帰ってきたように思えました。ファッションにおいても、自分自身においても。あれは感慨深かった」とデムナは言う。私には彼が、ターニングポイントを迎えようとしていることをよりわかりやすく伝えるために、この話をしているように思えた。「なぜか、ふとそう思えました。そんなことが起きればいいのにとも思っていませんでした。いつそんなことが自分の身に降りかかるかなんて、考えてもいなかった。でも、起きたのです。それ以来私は、クリエイティブな好奇心と興奮に満ちています」 ◾️ニューヨーク 数カ月後、絵葉書のように美しい春のニューヨークで、デムナと私はアッパー・イーストサイドのレストラン、オルセーでランチをした。バレンシアガ×EREWHONの黒のジップアップフーディに、シルバーの太いフープイヤリングを合わせたデムナはまるで、シルクのスカーフを巻いた常連客たちのゴスの甥っ子のようだった。 彼はセラピーを受けた帰りだった。今週は何について話したのですか? と尋ねると、サラダとフライドポテトを注文しながら「メットガラについてたくさん話しました」という答えが返ってきた。 彼は前日の夜に、メットガラに出席していた。「普段は大嫌いなのですがね」と、デムナは大物セレブが集まる豪華な祭典について語った。こうしたイベントに関心がある人は、それを聞いてもそこまで驚かないかもしれない。2021年、デムナは顔まですっぽりとおおい隠すおそろいの黒いルックを身につけてキム・カーダシアンとともに登場し、著名人であることに対する複雑な思いを示唆してみせた。デムナによれば、このアイデアは当初カーダシアンだけのために思いついたものだったが、これを着ると前が何も見えないことに、途中で気づいたという。「だから『じゃあ一緒に行くよ』となったのですが、まるで目が見えないふたりがお互いを導き合っているような感じでした」。デムナはまるでゴシップでも語るかのように笑った。「でも実際のところ、『シェルターの中にいる』という考えが背景にありました。当時は人に知られないでいるのが好きだったのです」 今年のメットガラは驚きの連続だったと、デムナは振り返る。デムナとBFRNDがレッドカーペットをすり抜けてメトロポリタン美術館に入ると、弟のグラムと鉢合わせしそうになったのだ。2014年、デムナとグラムはヴェトモンを立ち上げ、伝統的なファッション業界のシステムに対する怒りを、ハードコアなフーディ、トラックパンツ、ボンバージャケット、バイクギアに込めて発表した。グラムはビジネス面、デムナはクリエイティブ面を担当し、これによってデムナはパリに現れた新星デザイナーとしての地位を確立し、そしてたった1年後には、バレンシアガのアーティスティック・ディレクターに就任した。 2019年、デムナはヴェトモンを去り、2022年にグラムがクリエイティブ・ディレクターに就任した。兄弟は現在、疎遠になっている。昨年、グラムは『ニューヨーク・タイムズ』に、「この10年間は調子が良かったが、彼の時代は徐々に終わろうとしている」とデムナについて語った。今回の取材で弟の話題は、デムナが詳しく話したがらなかったことのひとつだった。しかし、これまで一緒に仕事をしてきた人たちのなかには、彼のデザインを特徴づける美学的要素を自分のものとして使う人もいて、裏切りを感じるとデムナは言った。 1年くらいは会っていないグラムがその場にいるとは知らなかった、とデムナは語った。カーダシアンが、ちょうどいいタイミングでデムナを会話に引きずり込んでくれたおかげで、その場では挨拶も交わすことなく終わったという。 「すごく悲しいですよ」とデムナは言う。「でも一方で、こうなったことで自分を切り離すことができたので、よかったとも思います」 それでもデムナはメットガラを楽しもうと心に決めていた。ディナーのあと、彼はフランスを代表する俳優イザベル・ユペールをつかまえると、同美術館のコスチューム・インスティテュートのギャラリーに連れて行った。そして、その夜の彼女のために彼自身がリメイクした、シャンパン色のドラマチックなウェディングドレスのオリジナルバージョンを見せたのだ。展覧会は何時間も前に終わっていたので、彼らはこっそりと中に入って、ギャラリーを走り抜けた。警備員に追われながら、ユペールは靴と長いトレーンを抱えてキャーキャー叫んだという。デムナは自由を感じられた気がして、大いに楽しんだそうだ。 このような楽しいけれど秩序を欠いた時間は、デムナにとって彼が思っている以上に大きな意味があるのだとわかる。彼のランウェイ復活と新たに見つけた幸せの裏には、この2年間に経験した驚くべき個人的な変化がある。それはどん底を味わうような、耐え難い経験から始まった。サラダを食べ終わる頃、私はデムナの時代が本当に終わりを告げるかのように見えた時期に話題を振り、それについて今はどう考えているのかを訊いてみた。あのときの論争のことですが、と私は思い切って切り込んだ。するとデムナは、「あれはスキャンダルですよ!」と甲高い声で言った。「大スキャンダル!」 2022年の終わり、デムナの仕事は「蓄積された怒り」に満ちていた。ファッションの最先端に身を置いてきた年月がフラストレーションとなり、燃え尽きてしまったと彼は当時を振り返る。プライベートでは、挑発者呼ばわりしてくるファッション評論家に憤慨し、トローリング(荒らし行為)をしていると非難されることに心を痛めているようだった。つまり、デムナが作る服は彼の顧客に対する手の込んだ(そして高額な)ジョーク以外の何ものでもないという批判のことだ。彼は作品を通して自分の感情を処理した。ファッションが、終わることのない没入型のエンターテインメントとなっているなか、デムナはパリ郊外の見本市会場で泥まみれのショーを行った。当時のデムナとのコラボレーターであり、バレンシアガの上顧客でもあったイェことカニエ・ウェストを先頭に、モデルたちはぬかるんだランウェイを歩いた。(2022年末、親会社であるケリングは、バレンシアガは物議を醸す発言を繰り返したイェとの関係を切ったと発表した) 2022年11月、こうした暗いテーマは新たな反響を呼ぶことになる。バレンシアガのホリデー・キャンペーンで、レザーのハーネスとピアスで飾られたテディベア(「泥まみれのショー」で登場したハンドバッグ)を手にした子どもたちを起用したところ、右派のコメンテーターたちから児童虐待を助長していると非難されたのだ。すると児童ポルノに関する最高裁判決の文書をはじめとする小道具が、別のキャンペーンでも使用されていることに気づく人が現れ、激しい議論へと発展した。そうした詮索は陰謀論へと傾いていったものの、その影響はすぐに現れた。バレンシアガの店舗が破壊され、アンバサダーを務めていたセレブたちは距離を置きはじめ、売り上げは落ち込んだという。デムナとバレンシアガは数回にわたり謝罪し、「バレンシアガが責任を負うべき一連の重大な過ち」だと認め、子どものための慈善団体との提携を発表した。小道具として使用された書類についてデムナは、2023年の『VOGUE』の取材にこう語っている。「怠慢と不運が重なって起きた、意図せぬことでした……。書類はそこにあるべきではなかった。愕然としました」 それでも当時は、デムナが職を失う、あるいは退任するという噂が絶えなかった。バレンシアガとケリングは最終的に花形デザイナーであるデムナを支持したが、デムナは精神的に打ちのめされ、作品はクリエイティブ面でも頭を垂れてしまったように見えた。この一件のあと、2023年3月に行われたショーは、単調でトゲがなく、基本的にはこれまでのヒット作の焼き直しで、デムナのビジョンを極めて刺激的にしていた辛辣さが、まったく感じられなかった。泥まみれのショーやスキャンダルそのものよりも、このショーこそが、デムナが底辺まで落ちたときであり、彼の最高傑作はもはや過去のものなのかもしれないという、かつては考えられなかった可能性に人々が直面したときでもあった。デムナは「もう忘れてしまったショー」と呼んでいた。 私は、当時のスキャンダルを今はどう受け止めているのかと訊いてみた。「あの状況、そしてその余波は、私個人にとって再起不能なくらいの打撃となりました」とデムナは言う。「とても傷つきました。でも今は、自分の仕事、将来、キャリア、周りの世界に対する見方など、自分自身にプラスになることがあったと思えるようになってきました。これまで私の人生に起きたさまざまなことと同じように、あの一件で私が潰されることはありませんでした。おかげで、強くなれた。本当のシェルターは自分自身なのだと気づかされました」 デムナは最近、覆面を着用していないが、メットガラではパンツの後ろポケットにビーニーを忍ばせていた─念のために。一晩中彼はそのビーニーを安心毛布のように握りしめていたが、カーダシアンに会話に引き入れられたときも、デムナ版『ナイト ミュージアム』に“出演”したときも、かぶらなかった。「(ビーニーは)自分にとって、コントロールするための手段なのですが、ああいう状況ではコントロールしたいとは思いません。初めて心から手放したいと思えました」。(この記事のためのポートレート撮影は、彼がメットガラに出発する少し前に行われたのだが、なぜそのときはビーニーをかぶっていたのかと尋ねると、デムナはこう答えた。「ただ、そのほうがクールだと思ったからです。もはや何かを隠そうとかいうことではなく」) 私は、スキャンダルがきっかけで、デムナは覆面を外したように思える、というおそらく誰にとっても明白なことを伝えた。 「その通りですね」と彼は答えた。「あのおかげで、デムナという人間を出てこさせることができました。自分を受け入れるきっかけになったし、自分を愛する方法を学びたいという願望が芽生えました。それは、7年セラピーに通っても、到達できなかったことです」 ◾️上海 5月末、私はデムナに会うために、上海の人目を引くネオ・アールデコ調のペニンシュラ・ホテルに車を停めた。 2階に上がると、私はデムナがいるスイートルームに入っていった。暗い色調のラッカーとベロアと鏡で覆われた部屋は、どこかでヘンリー・キッシンジャーと周恩来が煙に包まれた2国間会談を行っているかのような場所だった。あと5時間ほどで、デムナは2025年春コレクションを発表し、巨大都市上海のフューチャリスティックな地平線を背景にランウェイショーを行うことになっていた。 デムナはビロードのようなソファから立ち上がると、私が着ていた全身黒ずくめでとても大きな服をじっと見た。「いい肩のラインだ」と彼は満足気に言った。 正直に言って、私は彼がそう言ってくれることを期待していた。バレンシアガが上海で行われるショーのために招待してくれたとき、私はこの機会に洋服を貸してもらえないかと頼んでいた。それまでデムナと何時間もの時間をともに過ごし、彼の人生や仕事について質問攻めにしてきたが、彼の服を実際に着てみなければデムナを本当に理解したとは言えないのではないかと思ったのだ。例えば、トム・フォードの家を訪れるのに、デニムの短パンをはいて行くなんて考えられない。デムナのハイパーリアルなスタイルを知ってしまうと、私の普段着は取るに足らない気の抜けたものにしか思えなかった。だから、彼のレベルに近づきたいと思ったのだ。 どんなレベルを目指すにせよ、私のコンフォートゾーンからは大きく外れている服だった。借りたアンサンブルには、ゴスのデヴィッド・バーンのために作られたようなブレザーがついていた。肩を膨らませ、建築学の博士号がなければ理解できないような複雑な構造で、角をつまんで完璧な長方形のシルエットを形成しているようだ。「私は難解な挑戦が好きで、モダンに仕立てるのは最も難しいことのひとつです」とデムナは言っていた。私はエレベーターに横向きに乗り込んだ。ズボンもブレザーに合わせてサイズアップされていて、つま先より何センチも大きいスクエアトウのローファーミュールの周りに溜まっている。そしてフーディ。ニューヨークの自宅に届いたとき、私は何かの間違いだろうと思った。なんてことのないジップアップフーディだが、中学生用かと思うくらい短くカットされていたからだ。だが間違いではなかった。タグには私のサイズである「L」と書かれていたからだ。 デムナは、以前はジーンズにボタンアップシャツという姿だったライターが、なぜ今はランウェイの服を着ているのかなど、疑問にも思っていなかった。「ゴシックでボリュームのある服を着ている僕たちは、ある意味お揃いですね」と私は言った。するとデムナは「ですね!」と言って席に着き、クスクス笑った。「最高じゃないですか」 これまでの歴史を遡るような上海のショーは、何でもありだった。中国はバレンシアガにとって最も強力な市場のひとつであり、上海の高級ショッピングモールやトレンディな地区の店舗には、巨大な服がいたるところに展示されている。ここではデムナは正真正銘の有名人だ。「クレイジーですよ」と彼は言う。「これほどまでとは、知りませんでした」 ホテルで話を終えたころ、空はバレンシアガの包装の色と同じマットグレーに変わっていた。ランウェイの舞台となるのは、ジャン・ヌーヴェルが設計した上海浦東美術館の外にある高架歩道。だが、豪華絢爛な屋外のショーまであと数時間だというのに、予報では天候はますますひどくなっていく。代わりの会場や緊急テントは用意されていないようだ。 デムナは携帯電話を2、3度チェックしていたが、おそらく悲惨な予報にストレスを感じているのだろう。今回のショーを成功させなければいけないというプレッシャーは、さまざまな面からのしかかっていた。4月、ケリングは、グッチのクリエイティブ面での変化や高級品の消費減速を背景とする、大幅な減収を報告した。最近はケリングでトップクラスの問題児扱いされていたデムナだったが、今ではグループの最も安定したリーダーのように思える。 昨年12月のLAと今年3月のパリでのショーを通して、自分自身と自分のビジョンに対する自信を取り戻したデムナは、「これまで以上の覚悟ができている」そうだ。今は、バレンシアガでの未来の構想を描いている。ショーをよりドレッシーなものにし、これまで培ってきたデムナと言えばストリートウェアというコードよりも、テーラリングやクチュールを強調するよう努めているのだと説明した。「時々、目が覚めるとフォーマルな格好をしたくなります」とデムナは言う。上海のショーで披露されたスーツとコートは、ゆったりとしたアワーグラスシルエットが特徴的で、クリストバル・バレンシアガのクラシカルなシルエットを、ヒップラインを優しくなぞり、ボディまわりにゆとりをもたせて脱構築したものだ。セクシーという言葉は、デムナのメンズウェアを言い表すのに最も遠い言葉の1つだが、これらのジャケットにはノワールめいた官能的なエネルギーが感じられる。 「今、以前と同じくらい調子がよくなりました」とデムナは言った。「つまり、結局のところ、どんな服を着るかというのは非常にフロイト的です。隠すことはできません」 以前私はデムナに、服を通してある種の感情を伝えようとしているのかと尋ねたことがあった。「ある種の気楽さが欲しいのです。何時間もかけて深く考えるようなものではなくて。無頓着で、すごく気楽っていうか……“何でもいい”という感じは好きですね。そういうのには、すごく惹かれます」 傘をさしたミシェル・ヨーが席に着く頃には、霧雨は本降りになっていた。BFRNDが作曲したサウンドトラックの重低音が水たまりを震わせるなか、そびえ立つような背の高いモデルが次々と夜のランウェイに姿を現した。床に擦れるくらい長いオーバーコートやトレンチコートの下に、約30センチの高さがある編み上げのプラットフォームコンバットブーツを履いたモデルたちは、別次元からやってきた、タイムトラベラーのようだ。 バックステージでデムナは、ショーのオープニングを飾ったBFRNDが雨ですべらなかったことに安堵しながらも、これでもかというほど夫を自慢していた。「彼はますます自分自身とつながり、自信を持ち、直感に耳を傾けています。それはすごい強みです」。それから、今のデムナを表現するときに繰り返し使われる言葉を口にした。「彼は恐れを知らない。それがショーでますます感じられるようになってきました」 その夜遅く、バレンシアガのアフターパーティーが巨大なナイトクラブで行われた。深夜0時を回る頃、デムナはVIPエリアの中央に立ち、列をなすクライアントとの写真撮影に辛抱強く応じていた。赤いレーザー光線とスモークマシーンから立ち上る煙に包まれながら、デムナはセレブデザイナーとしてファンの愛を一身に浴びていた。彼らを見下ろすくらい背が高い彼は、パワフルだった─プラットフォームブーツに履き替えていたのだ。 私は彼に、この天候が今回のショーの体験にさらなる深みを与えたと思うと伝えた。今夜は雨の効果もあってドラマチックで美しかった。デムナはうなずいた。「雨のことを一日中心配していましたが、実際に雨が降って、結果的にショーがぐっと良くなりました。なりゆきに任せる重要さをもう一度学びました」 【DEMNA】 1981年、ジョージア生まれ。2006年、アントワープ王立芸術アカデミーファッションデザイン学科の修士号を取得。2014年にヴェトモンを立ち上げ、ウィメンズのプレタポルテ・コレクションを発表。2015年、バレンシアガのアーティスティック・ディレクターに就任。 From GQ.COM WORDS BY SAMUEL HINE PHOTOGRAPHS BY JASON NOCITO TRANSLATION BY MIWAKO OZAWA