鉄道路線の廃止を経て現在は茨城交通に統合された日立電鉄の平成初期をみる
日立電鉄は、日本有数の電機メーカーである日立製作所の出資も受け、同社関連工場も多い日立市を中心に鉄道・バスを展開した。しかし関連工場の規模縮小をはじめとした経営環境の変化から、平成期はバス事業の分社化と再統合や鉄道事業からの撤退を強いられた。 【画像ギャラリー】平成の終焉とともに歴史に幕……工場勤務者の足としても活躍した日立電鉄の平成初期(10枚) そして2017(令和元)年には茨城交通と合併し、平成の終焉とともに日立電鉄もその歴史に幕を閉じた。そんな激動期を迎えつつあった平成前期の日立電鉄の様子を紹介しよう。 (記事の内容は、2024年6月現在のものです) 文・写真/石鎚 翼 ※2024年6月発売《バスマガジンvol.125》『平成初期のバスを振り返る』より
■自家用車の普及とバブル崩壊によって交通事業は徐々に衰退し分社化が進んだ
日立電鉄が拠点とする日立市は、長らく日立製作所をはじめとした事業所が多く立地し、バスや鉄道がその就業者の足を支えてきた。しかし自動車の普及をはじめ、バブル崩壊後に事業所の整理・合理化が進められ就業者数の減少が始まると、交通事業もたちまち厳しい状況に追い込まれた。 そのため、日立電鉄は1995(平成7)年にまず県北部の過疎路線をでんてつオーシャンバスとして分離、続いて1996(平成8)年には日立市神峰営業所管内を日立中央バスとして分離し、効率化を進めた。 さらに1999(平成11)年にはすべてのバス事業の分離とともに、でんてつオーシャンバス、日立中央バスと再統合を図り日立電鉄バスとなった。そして2005(平成17)年には日立電鉄交通サービスに商号を変更、同時に日立電鉄は鉄道事業を廃止し、その後清算された。 2017(令和元)年には、日立製作所は日立電鉄交通サービスの全株式をみちのりホールディングスに譲渡し、既に同社傘下だった茨城交通と合併、長らく続いた日立電鉄の呼称は消滅した。 車両は自社発注車では前中扉車を標準的に採用していた。前述のように日立市周辺を中心に工場関連の通勤輸送を担った関係で、大型・中4枚折戸車を早い時期から自社導入しており、同社の特徴的な仕様だった。 車内も三方シート(ロングシート)を中心とした構成で、ラッシュ時の大量輸送に対応した。自社発注車はいすゞ・日産ディーゼル・日野製を主体としていた。 平成時代に入ると、車両の陣容は大きく変化した。老朽車の置換えのため首都圏をはじめ、関西からも多くの中古バスが導入されるとともに、中・小型バスの導入が進められ、バスのダウンサイジングも進んだ。また、ドア配置も前後ドア車をはじめ、中折戸、中引戸、中4枚折戸と多様な仕様が混在することとなった。 1994(平成6)年には車体のデザインも改められ、従来の個性的なデザインから、波をイメージした明るい塗装に生まれ変わった。なお、このデザインは茨城交通との合併後も踏襲され新規導入車にも採用されている。 平成初期は大量輸送時代からの変革期にあたり、会社の構造のみならず車両陣容にも大きな変化が訪れた時期であった。さらに県都水戸へ至る一般路線が廃止されるなど、路線自体の縮小も進められていた。まさに激動の時代の幕開けと言った時期だった。