父・ハマコーと親子二代、無派閥の理由
親父は派閥に入れてもらえなかった
――浜田さんの父で「ハマコー」の愛称で親しまれた自民党の浜田幸一元衆院議員は、ほとんど派閥に属しませんでした。浜田さんも議員生活の大半を無派閥で過ごしています。 親父の場合は、派閥に入りたくても入れてもらえなかったんです(笑)。自分は入りたい派閥が見つからなかったと言うか……。 渡辺美智雄先生(元外務大臣)の魅力が大きすぎたのかもしれません。秘書として3年間お世話になり、仲人もお願いしました。1993年に初当選した時点で当然、渡辺派に入る以外の選択肢はありませんでした。95年に先生が亡くなり、では次はどうするかと言っても、あそこまで人間的な魅力やオーラのある人はそうそう見つからない。98年に山崎拓先生(元防衛庁長官)が旧渡辺派から独立して作った派閥(近未来政治研究会)には加わらず、そこからずっと無派閥でやってきています。 ――途中で派閥入りの誘いを受けることもあったのでは。 あったかもしれないけれど、後から加わったら「外様」ですからね。やはり派閥はチャーターメンバー(創立会員)が大事にされるものですよ。
一つのプロフェッションを持つ
――派閥に属さないことのデメリットを感じるのはどんな時ですか。 やはり人事ですかね。派閥に入っていた方が有利でしょう。 ――閣僚・党役員人事では毎回、各派閥が作った候補者リストを参考に決められてきました。浜田さんは無派閥ながら麻生太郎政権、岸田文雄政権でそれぞれ防衛大臣に起用され、キャリアを重ねてきました。 93年の衆院選までは一つの中選挙区内で派閥どうしがガチガチに戦っていて、派閥に入らないと選挙に出ることすらできなかった。96年の衆院選からは小選挙区になり、それぞれの派閥から幹事長へと権限が集約されていくと言われましたが、そうはならなかった。派閥色が濃く残り、派閥による連立政権みたいなガバナンスが続いてきたわけです。 そうした中で、われわれ無派閥が表に出ていくには、やはり一つのプロフェッションを持たないと難しい。僕の場合、防衛、水産の分野を中心に30年間やってきて、そうした積み重ねを諸先輩方に評価していただいたところが大きいと思っています。 例えば石破茂防衛庁長官の時に副長官に起用されましたが、その時には笹川堯(たかし)先生(元科学技術政策担当大臣)らが気を使ってくれました。古賀誠幹事長の時には、それまで派閥単位で選ばれていた副幹事長の人数を党則改正までして増やし、入れてもらいました。意外と恵まれているんですよ。(笑) ――派閥に入っていれば週1回の例会などで仲間と顔を合わせ、情報交換もできますが、無派閥は自力で人間関係を築き、情報を取りに行かねばなりません。 まあ、大変ですよ。あと、この年齢になって思うのは、派閥に入っていないと若い人との接点がなかなか持てないんですよね。 ――無派閥議員のグループ「無派閥有志の会」の会長を務め、派閥横断的な活動を続けています。2012年の自民党総裁選で石破氏を支持した無派閥議員を母体に設立された「無派閥連絡会」にも参加しておられました。 無派閥議員の中には、石破さんが15年に「石破派」を結成した後も派閥には参加しなかった人もいて、一種の受け皿として「有志の会」を作りました。もともと自分は野田聖子(元総務大臣)や小此木(おこのぎ)八郎(元国家公安委員会委員長)らほかの無派閥議員と一緒に活動していましたし、(選挙区の事情などで)無派閥でなければ党内で活動できない人もけっこういるわけですよ。派閥に入ると、誰かの顔が立たないとか、この世界はいろいろありますから。