教義は“都合よく解釈”できるように作られている… 信者がつい陥ってしまう“単純な思考回路”
世間から「問題がある」とされている宗教に、なぜ入信するのだろうか。 多くの人にはピンとこない話かもしれないが、“内側”にいた人たちの証言からその体験世界をのぞけば、誰もが「狂信」する可能性にドキリとするかもしれない。 本連載では、宗教2世の「当事者」であり、問題に深く関心を持つ「共事者」でもある文学研究者が、宗教1世と宗教2世へのインタビューをもとに、彼らの「狂信」の内側に迫る。 今回は、信者たちが自身の信じるもの、信じたくないものを都合よく解釈する「確証バイアス」と「認知的不協和」について紹介する。(第4回/全6回) ※ この記事は、文学研究者・横道誠氏による書籍『あなたも狂信する 宗教1世と宗教2世の世界に迫る共事者研究』(太田出版)より一部抜粋・構成。
確証バイアスと認知的不協和
何かを信じている人は、信念を裏打ちするような証拠を積極的に追いもとめ、逆に信念をくつがえすような証拠を集めることには消極的な傾向を持つ。これは「確証バイアス」と呼ばれている。 私の場合は、小学校高学年のときに、エホバの証人の副読本で自然科学や古代史に関する記述に関心を抱いたものの、図書館で調べてもエホバの証人の主張を傍証できなかったことから、この教団のかずかずの欺瞞(ぎまん)を知るようになった。 それに気づいた上で、母親を含む信者たちの発言に耳を傾けていると、信じたいことは信じる、信じたくないことは信じないというだけだという単純な思考回路を見てとれるようになった。「確証バイアス」という言葉を知らないまま、この概念を理解できるようになったのだ。 また信念が揺らぐとき、人はその揺らぎを解消するために、信念を揺るがせているものを過小評価したり、窮地に立たされたじぶんの認知を修正して立てなおそうとしたりする。あるいは、じぶんの態度や言動を変更しようと対策する。このような現象をもたらす信念の揺らぎをアメリカの心理学者レオン・フェスティンガーは、「認知的不協和」と呼んだ。