『ニア・ダーク/月夜の出来事』B級というなかれ!剛腕監督キャスリン・ビグローの原点
アカデミー監賞に風穴を開けた女性
米アカデミー賞で女性監督がオスカーを射止めることが少なくなくなった昨今。2020年代に入ってからも『ノマドランド』(20)のクロエ・ジャオ、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(21)のジェーン・カンピオンが受賞している。2024年の第96回も『落下の解剖学』で、ジュスティーヌ・トリエが監督賞にノミネートされた。 そんなアカデミー賞において、女性監督に門戸を開いた存在といえば、やはりキャスリン・ビグローだろう。彼女は2008年に『ハート・ロッカー』でアカデミー監督賞を受賞したが、女性監督が同賞に輝いたのは82回の歴史の中で初めてのこと。しばしば保守的と揶揄されるアカデミー賞に、風穴が開いた歴史的瞬間だった。 そんなビグロー監督が、自作の中でもっとも好きと公言しているのが、キャリア初期の低予算映画『ニア・ダーク/月夜の出来事』(87)だ。彼女は1981年の『ラブレス』でモンティ・モンゴメリーと共同で演出を務め、監督デビューを果たしているが、単独での監督は本作が初。それだけに自身の思い入れも強い。本稿では、彼女のフィルモグラフィーの中では地味だが、見逃すわけにはいかない本作について語ってみたい。 まずは簡単にストーリーを。カウボーイの若者ケイレブは、ある夜、メイという女性と出会い心惹かれる。ところが彼女は吸血鬼であり、人間を殺して血を吸わなければ生きていくことができない。幸いにも殺されずに済んだケイレブだったが、彼女に甘噛みされたことで自らも吸血鬼となってしまう。メイが行動をともにしている吸血鬼グループは、そんな彼を放っておくにわけに行かず、殺人行脚の旅に同行させる。しかしケイレブはどうしても人を殺すことができずにいた。一方、ケイレブの父は失踪した息子の行方を幼い娘とともに捜索し、やがて思わぬかたちで再会を果たす……。
ビグローは西部劇を撮りたかった
あらすじだけを追えば、これがホラーであることは理解できるだろう。実際、バイオレンスやスプラッターの描写は少なくない。が、本作にはそれだけにとどまらないエッセンスがある。まず、ケイレブとメイのラブストーリー。最初はケイレブに気のなかったメイも、自身のせいで彼が吸血鬼になってしまったことに責任を感じており、それは彼への愛情へと次第に変化していく。一方のヴァンパイアとなったケイレブは人を殺せない以上、彼女が分けてくれる血にすがるしかない。 また、本作にはふたつの家族のドラマもある。ひとつはメイが所属する吸血鬼グループの疑似家族。リーダーのジェシーは“ファミリー”を守るために仲間を統率する父親のような存在だ。一方では、ケイレブを必死に探し続ける実の父ロイがいる。後半でケイレブは、このふたりの“父親”の前で究極の選択を迫られる。 もうひとつ見逃せないのは、西部劇のエッセンスだ。そもそもビグローと、共同脚本を務めたエリック・レッド(『ヒッチャー』/86)は西部劇を作りたいと切望していたが、当時斜陽だったこのジャンルに出資する者がおらず、流行のホラーをそこに入れ込むことに妥協点を見出した。本作の吸血鬼グループは現代のアウトローであり、各地を転々としながら悪事を働くならず者一味だ。警官隊に包囲され、凄まじい銃撃戦を演じることで生き延びる場面もある。さらにクライマックスでは、大通りで馬に乗ったケイレブが敵と対峙するという西部劇さながらの見せ場もある。 本作を現代のドラマにするために、ビグローは吸血鬼映画の伝統をバッサリと切り捨てた。たとえば、十字架やニンニクに弱いというゴシック的な要素。本作の吸血鬼の弱点は陽の光のみで、それさえ避けられれば永遠に生き続けることができる。一方で、ビグローはすべての吸血鬼映画の原点であるブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」から、吸血鬼映画の多くが無視してきた、体内の血を入れ替えれば人間に戻れるという設定を拝借している。