「6年後、中学受験で入ればいいわ」義姉の慰めが、小学校受験に失敗した母に突き刺さった理由とは
平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。 そっと耳を傾けてみましょう……。
第69話 第一志望という呪い【前編】
――それではお譲りバザー準備は13時から16時にいたしましょう! 仕事が終わって、スマホを見ると未読メッセージが37件。すべて、明日の小学校の保護者会についてのああだこうだという話し合い。 「もう……バザーの準備なんて、昨日も集まったんだからパパっと割り振って、持ち帰りにすればよかったのに」 私はがっかりしながら、グーグルスケジュールを開いて明日、仕事用の服を買いに行く予定をずらした。私立小学校に入ったら、この程度の父兄のお手伝いがあるのはもちろんわかっていた。それなのにこんなにイライラするのは、ただの八つ当たり、ただこの学校を好きになれていないから。 この春から、週2日、こども英会話教室の受付としてアルバイトを始めた。周囲は「一人息子の優也くんの小学校受験が終わって、社会復帰ね」と声をかけてくれる。 でも、そんな前向きなものじゃない。 小学校受験で、熱望していた大学附属校に落ちた。おまけに第二志望も第三志望も。結果、正直ちっとも考えてなかった学校に入学するという現実から目を逸らしたくて始めただけ。とにかく少しでも気を紛らわしたかった。 きっと、小学校受験と縁がないひとにとって、不合格になってからのありさまは本当に滑稽だろうと思う。たかが子どもの小学校。長い人生、大した話じゃない。 ……そんなふうに思える程度のところで、誰か止めてほしかった。お教室も、義母も、夫も、みんなで私にささやいた。あの学校が一番、あの学校じゃないと意味がないって。合格できるかどうかは母親次第、みんなすべてを捨てて頑張っているって。 すっかりそれを信じたあと、心がちぎれるほどの望みが叶わないときはどうすればいいのだろう? 今はもう、誰も教えてくれない。
行きたくない駅、会いたくない人
「綾乃さん! 優也くん!」 やっぱり、この駅に来なければよかった。 背後から声をかけられたとき、「いくらあの学校に近い駅だからって、会うことはないはず」と思った自分の甘さを恨んだ。 笑顔が強張らないように準備してから、優也とつないだ手をぎゅっと握って、振り返った。 そこには憧れの制服を着たお教室仲間の男の子と、最高に上品なネイビーのワンピースを着たママ友の智花さんが立っていた。 「わあ、久しぶり! 優也くん、しばらく見ない間にとっても背が伸びたね」 一点の曇りもない笑顔で接してくれる智花さん。2歳からずっと小学校受験のため一緒にお教室に通った仲間。同じ志望校特訓講座を、悩みながらたくさん受けた戦友。 それなのに熱望校の合否はくっきりわかれ、それ以来会うのは初めてだった。 「久しぶり、智花さん。……翔くんも、制服すっごく似合ってる」 「ありがとう、土曜日学校あるから、今日も送迎。新生活、なかなかリズムになれないよね」 優也が通っている小学校は土曜日がお休みだから、今日は私服。でも制服じゃなくてよかったかも。とっさにそう思ってしまうのが悲しい。でも、多分智花さんは知りもしない私立の制服姿を見せたくない。 嬉しいはずの再会で、そんなふうにマイナスな感情が湧いてしまうほど、あの学校の制服には威力があった。ああ、優也に着せたかったな……。 喉の奥がぎゅっとなる。慌てて智花さんから目を逸らし、優也を見た。 「今日、お友達と約束していて。いけない、遅刻気味なんだった、またゆっくり優也と遊んでやってね、翔くん」 私は忙しいふりをして大げさに手を振って、早足でそこを立ち去る。優也が、歩調を合わせながら不思議そうな目で私を見上げている。「おうちに帰るところだよね?」と言わなかったことにホッとした。 ――もし第一志望に合格できなかったとしても、絶対に子どもの前で泣いてはいけません。母は女優になってください。 幼児教室やネットの記事には、みんなそう書いてある。そんなことはわかってる。そうしたいと思ってる。頑張った優也を傷つけたくない。だからそのやり方を教えてほしい。 私は優也の手をぎゅっと握った。もう誰にも会わないように祈りながら、うつむいて歩いていく。