20世紀がわれわれに残した参考書のない宿題…「問題の解決方法がわからない問題」をどう解くか?
考える力をみるみる引き出す実践レッスンとは? 自分で「知」を生み出すにはどうすれば良いのか、いいかえ要約法、箇条書き構成、らしさのショーアップなど情報の達人が明かす知の実用決定版『知の編集術』から、本記事では〈意識しないとわからない、「会話」が成立するしくみ…誰もが何の気なしにやっている「編集」とは? 〉にひきつづき、乱世をどう編集していけばよいのか、みていきます。 【写真】「他人のふんどしで相撲をとる」、外国人に伝わるようにするならどう訳す? ※本記事は2000年に上梓された松岡正剛『知の編集術 発想・思考を生み出す技法』から抜粋・編集したものです。
乱世をどう編集していくか
さてさて、大混乱のままに日本は21世紀を迎えようとしている。 これは久々の乱世なのかもしれない。 それなら大いなるチャンスであろう。私だけが風邪気味なのかもしれないが、たいへんぞくぞくする。乱世であればこそ新たな発見に向かう可能性があるからで、少なくとも「経済大国」とか「生活大国」などと嘯いているより、また不景気や教育低迷を嘆いているより、ずっとおもしろい。 ただし、世の中をおもしろくするのは、そうかんたんではない。いささか工夫をする必 要もあるし、反省をする必要もある。そして、こういう問題を議論するにも編集術は必要になる。実用篇に入る前に、そのあたりのことについて少しだけふれておきたい。 私は21世紀は「方法の時代」になるだろうと考えている。ここで「方法」といっているのは、「主題の時代」ではないという意味だ。 すでにわれわれは20世紀においてだいたいの主題を提出し、その展開が意外にも難題をたくさんかかえていることを知った。たとえば平和、たとえば教育問題、たとえば安全保障、たとえば経済協力、たとえば環境保全、たとえば飢餓脱出……。 これらは地球上のどんな社会にとっても、いまや最も重要な主題として認識されている。加うるに「地球にやさしい」「子供は創造的な環境にいたほうがいい」「市場は自由な競争がいい」といったことは、まるで「亭主元気で留守がいい」「お酒はぬるめの燗がいい」とばかりに、おおむね20世紀後半の大前提になった。 しかし、事態はけっしてうまくは進んでこなかった。 誰だって戦争は危険なもの、爆撃は危険なものだとおもっているけれど、戦争はなくならないし、経済恐慌は避けたほうがいいとはわかっているが、どの国だって好景気はなかなか続かない。亭主も元気でいるとはかぎらない。 つまりどのような主題が大事かは、だいたいわかってきて、ずらりと列挙できているにもかかわらず、それだけではけっしてうまくはいかなかったのである。それゆえ、おそらく問題は「主題」にあるのではない。きっと、問題の解決の糸口はいくつもの主題を結びつける「あいだ」にあって、その「あいだ」を見出す「方法」こそが大事になっているはずなのだ。 実は、こんなことはソクラテスや荘子やブッダの時代、すなわちヤスパースが「枢軸の時代」とよんだ紀元前6世紀頃には、だいたいわかっていたことだった。 かれらはめんどうくさい議論や学習をするよりも、人間には事態に応じた知恵があればいいのだと教えてくれた。しかもすべての出来事は、善悪であれ、貴賤であれ、都鄙であれ、たいていは表裏の関係にあるということも断言してくれた。 ただ、このような達観をもっていた人物の考えかたの大半は宗教や心の問題になっていった。そしてキリスト教・イスラム教などの一部の宗教をのぞいて、実践面から遠のいていった。 それに、かれらにもまったく見えていなかったこともあった。それは産業革命と国家による地球分割と資本主義の肥大化という出来事である。これはわからなかった。こういう極端な体験をしてみるまでは、われわれには宗教でも解決できないことがあるということが見えなかった。 こういうことがかなり劇的にわかってきたのは、ヨーロッパではエリザベス一世の、日本では信長のころだ。二人はたった一歳ちがいの関係にある。エリザベスがお姉さんである。 何が見えなかったかというと、「社会の矛盾の大きさ」がわからなかった。そしてこれに対応していくことが良くも悪くも「近代の体験」というものになっていった。 しかし、近代の体験で知った矛盾の大きさを克服するには、次の20世紀の100年だけではどうも足りなかったようだ。なにしろ20世紀最初の半分は二度の世界大戦をおこしていたのだし、そのあとは資本主義と社会主義とが冷たい戦争をやっていた。 あるいはまた、“第三世界”が近代を追体験し、そうでなければ飢餓と差別と圧政とが渦巻いていた。それもスターリン時代がそうであったように、各国とも外からよく見えないようになっていた。 最近になってやっと、あれこれの矛盾がズラリ横一線にならび、みんながうーんと唸 るようになったばかりなのである。それでもこれで、とりあえずは問題群がだいたい揃ったはずだった。ところがまだとんでもない伏兵が待っていた。 20世紀を爆走しているうちに、われわれ自身の思考体質とか行動体質のようなものがだいぶん変質してしまっていたのだ。 問題群は出揃っているのに、問題を解く力が変質してしまっていたのである。そして、 これが20世紀がわれわれに残したアンチョコのない宿題になったのである。 この問題解決力に関する体質変化については、すでに多くの学者がさまざまな症状を指摘した。曰く、現代人は「よそよそしさ」を特徴とするようになったとか、曰く、世代間コミュニケーションをする力を失いつつあるとか、曰く、道徳や倫理観が脆弱になっているとか、いろいろなことが指摘されている。 どうしてそんなことになったのかという“原因”もいろいろ仮説がなされてきた。 資本主義の矛盾がいっせいに露呈しているのだ、資本主義と資本主義が対立しているのだ、いやそうではなくて資本主義と対立しているのは民主主義だ、技術文明を過信したからだ、国民国家と民族国家のズレが大きいのではないか、官僚国家の限界が露呈しているのだ、大衆社会による予想不可能な反逆がおこっているからではないか、知識人の役割が終わったからだ、アメリカ社会が独占的なリーダーシップをとりすぎているからだ、いやいや、西欧文明史がアメリカ内部において衝突しつつある影響なんだ、あげくは、脳と心を分離させたからだとか、父なるものが失われたからだとか、いろいろだ。 こういう状態を、かつてダニエル・ベルは「工業社会の終焉」とか「イデオロギーの終焉」と判断し、ついでガルブレイスは「不確実性の時代」とみなした。 そのうちニコラス・ルーマンは「構造流動」とか「パラダイム・ロスト」といった言葉で時代的な病巣を象徴し、ジャック・デリダは「脱構築の時代」ととらえ、ウィリアム・リースは「満足社会の喪失」と、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」とよんだ。 呼びかたはどうであれ、一言では片付かない事情に突入していることだけははっきりしているようだ。どうやら、とんでもないまちがいがおこっているらしい。 これはひょっとすると、われわれは「治療不可能の善」(フィリップ・ミュレイ)にとりつかれているのかもしれない、というふうにもなってきた。